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噺の話

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2014年 09月 02日 ( 1 )


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渡辺京二著『無名の人生』(文春新書)
 渡辺京二への聞き書き『無名の人生』から、生まれた頃のこと、家族、大陸での生活などについて、ご紹介。


 私の人生でいちばん古い記憶といえば、熊本です。昭和5(1930)年に京都で生まれたけれども、まだ満二歳くらいで熊本に移りましたから。京都については夜の街の風景とか、ちょっとしたおぼろげな記憶だけといってよい。
 無声映画の弁士をしていた父は、まず故郷の熊本でそのキャリアを振り出して、福岡で少し弁士として名前が上がったため日活(日本活動写真株式会社)にスカウトされました。戦前では、松竹と並んで日活が邦画の二大会社でした。東宝は少し遅れて出来たのです。
 父が京都の日活専属館で弁士をやっていたときに私が生まれたのですが、活動弁士としての親父にとってはその頃が全盛時代。やがてトーキーの時代となって親父は仕事を失い、新天地を求めて単身、大連に渡ることになったのです。その地でどんな仕事をしたのかは知りませんが、やはり同じ映画関係の仕事だったろうと思います。
 一方私たちは、両親の出身地である熊本に移り住みました。家族は母を兄、姉二人に私。昭和8年のことです。


 渡辺京二のお父さんが活動弁士だったとは。四人兄弟の末っ子、というのは私と同じなので、親近感を覚える。
 しかし、お兄さんは北京で、下のお姉さんは大連で亡くなっている。

 紹介した文章の続きを引用。


 私の熊本の記憶は、本を手当たり次第に読んだことです。熊本には小学校一年生までいましたが、学校に上がる前から字が読めて、『少年倶楽部』なんかに夢中になりました。
 昭和12(1937)年、私は小学校に入学するや、ほどなくして日中戦争が起こりました。当時は「し支那事変」と呼ばれた、日本と中国とのあいだの長い長い戦争の始まりです。父はそのころ大連から北京に移って「光陸」という映画館-竹内好の日記にこの映画館の名が出てきます-の支配人をやっていたので、私ら家族も熊本から北京に呼び寄せられました。昭和13年から二年間は北京暮らし。十五年に一家はまた大連に移り、大連を引揚げたのは22年の春のことでした。



 大連の暮らしは、敗戦までは悪くなかったようだ。空襲もないし、食べ物にも不自由を感じたことはなかったとのこと。
 しかし、敗戦後は状況が一変する。



 敗戦を境にして、我が家だけではなく日本人の生活は転落しました。まず、収入源がなくなる。内地との連絡も途切れる。それでも敗戦の年は備蓄があったのでしょう。米の飯も喰えました。
 ひどいことになったのは翌年からです。米の飯などもとより、麦が手に入ればまだいいほう、とうとう粟をお粥にするしかなくなりました。あとはコーリャン。あれは中国の農民の常食ではあったけれど、慣れないと喰えたものではない。
  (中 略)
 冬は石炭が切れました。零下十何度にまで下がる大連では、暖房なしで過ごすなど考えられないし、窓もちゃんと二重窓になっている。そんな大連で、敗戦翌年の年の暮れ、ストーブなしの冬を初めて迎えたのです。朝になったら花びんの水は凍りついていました。 
 昼間でも室内でオーバーを着る始末。夜寝るときどうしたかというと、炬燵の中に60ワットの電球を灯すのです。それに蒲団をかけて家族全員が四方八方から脚を突っ込んで寝ました。電球の熱で結構暖まるのです。とはいえ、まだ中学四年生だった私には耐えられたけど、親たちは過酷だったろうと思います。

 
 
 昭和5年生まれで大陸での戦中の体験をしているということでは、先代桂文枝と共通している。
 昨年、『あんけら荘夜話』を複数に分けて紹介した際、文枝の釜山での小学校時代のことを紹介したので、ご興味のある方は、ご覧のほどを。
2013年8月6日のブログ

 本書は、渡辺京二が良き聞き役に恵まれ、生い立ちを含め、著作や江戸時代のこと、人生、死、など幅広く語った内容が盛り込まれている。なかには、お茶目な部分も含まれている。
 
 『逝きし世の面影』の愛読者の方、あるいはこれから読もうと思われている方には、ぜひお奨めしたい本。
by kogotokoubei | 2014-09-02 07:13 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

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