人気ブログランキング |

噺の話

kogotokoub.exblog.jp
ブログトップ

2014年 08月 06日 ( 1 )

 8月6日、広島に原爆が投下されて69年になる。

 芸人の中にも、あの時、あの場所にいた人がいる。

e0337777_11125691.jpg

小島貞二著『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』(うなぎ書房)

 小島貞二著『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』は以前にも、“わらわし隊”のことや、バシー海峡、昔々亭桃太郎のことなどについてこの本から紹介したことがある。
2010年8月17日のブログ
2012年11月5日のブログ

 昭和二十年八月六日に日本軍の一兵士として広島にいた芸人について、本書から紹介したい。

猫八と原爆

 落語家ではないが、声色の江戸家猫八(三代目・岡田六郎)も出征芸人であった。
 それもヒロシマで原爆に遭っている。
 父が初代の猫八だから根っからの芸人であるが、二代目ではなく三代目。中に一人、二代目がいるのである。あとで書く。
 昭和十六年に古川ロッパ一座に入り、役者を演っているとき、赤紙が来る。骨と皮の体だから、召集など無縁と思っているところへ来たのだから、本人もおどろいたが、ロッパもあわてた。
 当時、満二十歳になる男子は、徴兵検査の義務があった。検査は甲種、第一乙、第二乙、丙種とあり、甲種は文句なしの壮丁だった。戦争末期には丙種だった歌笑にまで赤紙が来たのだから、仲間たちは「歌笑が兵隊じゃァ、日本も勝てないよな」と、小さな声でつぶやき合った。猫八はその第二乙だった。
 新潟の部隊に入り、南方だ北方だとあちこちを引っ張り廻されるうち、ようやく兵隊らしい体格になる。そして広島県宇品で終戦を迎える。
 根が芸能人だけに、部隊では重宝がられ、演芸大会にはいつも主役をつとめ、ロッパからの手紙も励みになる。東京大空襲(二十年三月十日)のあと、許可が出て東京に帰り、浜町の自宅の焼け跡を呆然と見る。
 あのヒロシマの日(二十年八月六日)のことは、猫八が自伝の中で書いている。その一冊『兵隊ぐらしとピカドン』(ポプラ社刊)によると、

  (中略)市内にはいると死体が横たわっている。トラックに何台ものせて
  太田川の土手へはこぶ。路上には、電信柱をささえるワイヤーロープに
  つかまったままで死んでいる人、川の中から上半身を水の上にだして
  虚空をつかむようにしてこう直している死者。水死体となって、川にういて
  いる男、女、そのなかには、牛や馬もまじっていた。
   キノコ雲はまだきえない。
   広島の上空のはんぶんに大雨がふったかと思えば、その反対側が
  晴れてお日さまが見える青空。気象の変化もともなった、まるで、
  キツネの嫁入りのアレである。

 そして、広島市内を歩く。
 その朝、猫八は宇品の兵舎にいた。爆音が響き、小さな落下傘が降った瞬間、ピカーッと光ってドーン。すぐ防空壕に飛び込み、五体満足を確認する。
「街の様子を見てこい!」
 という班長命令で飛び出したのが、前記のスケッチである。
 これがのち猫八の売りものの「原爆体験記」になる。芸術祭公演にも、テレビの演芸にもなり、多くの人に感動を与えた。


 
 猫八の原爆体験のことは、他の媒体でも知ることができる。前日八月五日の夜、猫八は演芸大会で優勝していたことなどを含め「ヒロシマ新聞」に掲載されている。「ヒロシマ新聞」の該当記事
 「ヒロシマ新聞」とは何か。同サイトから引用。

このサイトは被爆五十年目の年に制作されたヒロシマ新聞に、二〇〇五年に新たな情報を加え再構成したものです。ヒロシマ新聞とは、原爆投下で発行できなかった一九四五年八月七日付けの新聞を、現在の視点で取材、編集したものです。一日も早い核兵器廃絶を願って…。


 同サイトには、文章・写真の無断転載禁止と書かれているので転載はしないが、ぜひご覧のほどを。八月五日の演芸大会の優勝賞品の酒を抱えた猫八の写真もある。

 演芸大会の賞品の酒に酔って点呼に遅れたことが、もしかすると原爆の被害を少しは抑えることになったのかもしれないが、放射能が残る市内を歩いたことで、猫八は原爆症になっている。

 そして、あの日、ラバウルや北千島での恐怖体験をも上回る原爆被害の地獄絵を猫八は目の当たりにしたのだ。

 三代目猫八は当代の父で、初代の六男(だから本名が六郎)。私と同世代以上の方は、「お笑い三人組」の八ちゃんを思い出すだろうし、「鬼平犯科帳」の相模の彦十役の渋い演技に思いが至る方もいるだろう。

 大正十(1921)年十月一日生まれの岡田六郎は、あの時、宇品に駐屯する暁部隊の兵長として軍務に従事していた。満23歳の時だ。なお、暁部隊には丸山真男も所属していた。

 岡田六郎は戦後、原爆症に苦しんだ。そして、原爆投下直後の広島の惨状の記憶が、猫八のトラウマになっていたようだ。
 彼が意を決して戦争のこと原爆体験のことを語り出した(正式には「従軍被曝体験記」)のは昭和五十六(1981)年のことであり、『兵隊ぐらしとピカドン』が上梓されたのは昭和五十八年になってからである。

 四年前2010年8月のNHKの戦争特集の中で放送された「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」を見て記事を書いたことがあるが、あの映像の中で戦争の悲惨さを語っていた森光子さん、玉川スミさん、喜味こいしさんは、みな旅立った。
2010年8月11日のブログ

 先代猫八、かつての岡田六郎兵長も平成十三(2001)年に八十歳の生涯を閉じた。

 広島平和記念資料館のサイトに、以前に開催された企画展の紹介ページが残っており、昭和二十一年頃の猫八が奥さんと一緒に移っている下の写真が掲載されている。このページには、喜味こいしさんの戦争体験も掲載されている。
広島平和記念資料館サイトの該当ページ

e0337777_11125606.jpg

八重子夫人と猫八さん 1946年 (昭和21年) 頃ころ
猫八さんは、この頃、髪の毛が抜ぬけ落ち、
白血球は減へり続けていました。
提供/四代目江戸家猫八氏

*広島平和記念資料館のサイトより

 明治、大正生れの方から戦争体験をお聴きする機会が次第に失われていく。
 先月下旬、広島に原爆を投下したB29爆撃機“エノラ・ゲイ”の12人の搭乗者のうち最後の生存者が亡くなったというニュースを目にした。93歳だったようだから、原爆投下時点で、猫八とほぼ同じ年齢だったことになる。
 二十代前半の若者が、一人は空から原爆を投下する役目を持ち、もう一人は投下後の悲惨な光景を目にすることになったわけだ。
 
 広島では、核兵器のない世界を訴えても戦争について語らない首相が式典に並んでいた。
 本当に核兵器のない世界を望むなら、その材料となるプルトニウムを算出する原発の存在も否定すべきだろうと思うが、日本の首相にはそのような想像力はないようだ。彼の信条は一つ。アメリカが喜ぶことをすること。広島と長崎に原爆を投下したアメリカにヨイショする幇間なのである。原爆を含む戦争の被害者の方々は、今の日本の首相をどう見ているだろうか。

 “わらわし隊”の人気者であったミス・ワナカは、敗戦の翌年に心臓発作で三十六歳の若さで亡くなった。ヒロポンで命を縮めたと言われる。私は、戦時中の大陸慰問の際にワカナの漫才で大笑いしていた数多くの兵士が、戦争の犠牲者になったことと、ワカナの戦後の早逝を、分けて考えることができない。

 戦争で亡くなった方も、肉体は生き残ったものの心の病に悩んだ人も、同じ戦争の犠牲者だと思う。

 イラク戦争に関連して中東に配備されていた自衛官の自殺者が非常に多いという統計がある。湾岸戦争、イラク戦争から帰還した米兵に自殺者が多いのは周知の事実である。私は、それらの人も広義の戦争犠牲者だと思っている。

 猫八は、貴重な映像を遺してくれた。昭和六十三年、六十七歳の時に収録されたものだ。
 広島平和資料館サイトの「平和データベース」の「被爆者証言ビデオ」で“岡田六郎”と検索してもらえれば、猫八の証言ビデオを見ることができる。
広島平和記念資料館・平和データベース

 三代目の江戸家猫八は、芸人として通常の高座やテレビで戦争の影を一切見せることはなかった。しかし、原爆症での苦しみは後々の人生まで残ったらしい。映像にあるように、ほんのちょっとの運命のすれ違いで、あの時に広島にはいなかったかもしれない。それでも、幸運にも芸人として生き残る道を歩むことができたことに感謝の思いがあったからこそ、敗戦後三十年以上も過ぎてから、戦争体験を伝えようとしたのだと思う。被爆者手帳を受けとったのは、昭和五十九年のことだった。

 戦争への記憶が薄れることを利用するかのように、日本が戦争のできる国になる準備を進める為政者がいる今だからこそ、反戦、非戦の声を絶やしてはならないだろう。猫八が伝えようとした記録も、貴重なものだと思う。

by kogotokoubei | 2014-08-06 00:23 | 今日は何の日 | Comments(6)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛