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噺の話

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2014年 04月 02日 ( 1 )

4月2日は旧暦3月3日なので、本来は“桃の節句”なのだが、今週末で桜の見ごろも終わり、という声があちこちから聞こえる。桃は桜に主役の座を奪われてしまった。

 咲いている桜より、散る桜を愛でるのが良いという声があり、私もそう思う。

 以前にも紹介したが、藤原正彦著『国家の品格』から、再度引用。(太字は管理人)
2012年4月10日のブログ

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 藤原正彦著『国家の品格』

 第四章の“「情緒」と「形」の国、日本”から。

 桜の木なんて、毛虫はつきやすいし、むやみに太いうえにねじれていて、肌はがさがさしているし、花でも咲かなければ引っこ抜きたくなるような木です。しかし日本人は、桜の花が咲くこの三、四日に無上の価値を置く。たった三、四日に命をかけて潔く散っていく桜の花に、人生を投影し、そこに他の花とは別格の美しさを見出している。だからこそ桜をことのほか大事にし、「花は桜木、人は武士」とまで持ち上げ、ついには国花にまでしたのです。
 (中 略)
 アメリカ・ワシントンのポトマック川沿いにも、荒川堤から持って行った美しい桜が咲きます。日本の桜より美しいかも知れない。しかし、アメリカ人にとってそれは「オー・ワンダフル」「オー・ビューティフル」と眺める対象に過ぎない。そこに儚い人生を投影しつつ、美しさに長嘆息するようなヒマ人はいません。


 さっと咲いて見事に散る、その潔さは、江戸っ子の粋にもつながる。

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杉浦日向子著『お江戸風流さんぽ道』(小学館文庫)

 『お江戸風流さんぽ道』は、単行本『お江戸風流さんぽ道』(1998年、世界文化社刊)の内容を一部に、『ぶらり江戸学』(1992年マドラ出版刊)の内容を二部に収録して一冊にしたもの。
 杉浦日向子さん生前最後に発行された文庫本。平成17(2005)年7月1日初版発行。7月22日に旅立った著者が病床で手にできたかどうかは・・・分からない。
(このブログは基本的に敬称略なのだが、杉浦さんは、どうしても「さん」づけにしたいのでご容赦を)

 杉浦さんは別の著書で、「巨人・大鵬・卵焼き」ではなく「可楽(8代目)・柏戸・味噌おにぎり」だと答えているが、可楽をあげるところが渋い。文楽、三木助、志ん生のテープは全部持っていたと言われているほど落語好きなので、きっと可楽の音源も相当お持ちだったはず。

 「第一章 江戸の行事・行楽」の「桜見」からご紹介。

七分咲きより散る里桜 

 桜を愛でる花見(桜見)は、上方で始まりました。野遊び感覚で弁当を携えて深山(みやま)に入り、自生する一本の名木を愛でるのが古来の風習です。やがて、江戸では、山中ではなく、植樹した桜を町中で花見しようという新しい発想が生まれます。山ではなく里で楽しむ「里桜」の誕生です。
 このように、桜の愛で方が上方と江戸では違います。上方には桜の木自体の美しさを観賞するのに対して、江戸は人々がワイワイガヤガヤとコミュニケーションするための桜だったんですね。



 深山の桜の木を観賞する、という上方流については、文楽も演じた上方噺『鶴満寺』を思い起こす。まったくの山中というわけではないが、大阪は北方の長柄にある鶴満寺の枝垂桜を愛でに行こうという筋書きに、上方の桜見の名残りを感じる。

 かつては、そのように東西で桜の愛で方が違っていたが、今は、有名な大阪の造幣局の桜など、ほぼ同じように、“里”で多くの桜を愛でることで共通しているように思う。落語も『貧乏花見』と『長屋の花見』では、里の桜並木でワイワイガヤガヤという楽しみ方は共通。あくまで、『鶴満寺』と『長屋の花見』とを並べてみて、古き上方と江戸の桜見のあり様を、なんとか対比することができるではなかろうか。

 今度は、花見名所の様子や、現代と江戸時代の時間軸での桜見の違いについて。

 江戸市中に数多くある花見名所には、団子屋や茶店は出ますが、持参の花見弁当も大きな楽しみとなりました。花見弁当は、季節の菜の花や山菜、桜餅などが詰め込まれ、みんなの持ち寄りだから種類も豊富。それぞれ自慢の惣菜を、分け合い盛り上がります。
 また、花見の時期も、現代と異なります。今は七分咲き、八分咲きの散る前を見頃としますが、江戸では散る桜を愛でます。江戸で「桜」といえば、一弁を花びらの形、これを単弁桜と称します。空(くう)にハラハラと花弁が舞い、春先の黒くて軟らかい土の上に薄紅色の花びらが積もり、一面、桜の毛氈となる状態を愛でるのが、正統派の花見、桜は散りそめてこそ風雅なり、なのです。


 持ち寄りの花見弁当、貧乏長屋では、大根のこうこが蒲鉾、たくわんが卵焼きになる^^

 “風雅”なんていい言葉だねぇ。あくまで散る桜が風雅なり、なのである。

 単弁桜が舞ってきて、手に持つ自分の御猪口の酒に浮かぶのを見て一気に飲み干す、なんて言うのが江戸、本寸法の桜見なのかもしれない。

 なかなか、そういう雅(みやび)やかなる花見などやったことはないが、散る桜を見て“あわれ”を感じることはできる。私も日本人なのである。ただし、北海道生まれなので、江戸っ子ならぬ、蝦夷っ子だ。
by kogotokoubei | 2014-04-02 00:20 | 江戸関連 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛