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噺の話

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2014年 03月 12日 ( 1 )

3月12日は、五代目桂文枝の命日。昭和5(1930)年4月12日生まれで、平成17(2005)年3月12日に旅立った。本名は長谷川多持。

 六代目は、一昨年、自分の誕生日に襲名披露をしたが、師匠の命日に行なうべきだったのではないか、と私は思っている。襲名そのものも賛成できないことは、何度か書いた。

 それほど、五代目文枝の存在が大きいということだし、上方の古典落語については、噺によってはこの人が一番、というものがいくつかある。

 さて、五代目文枝は、どうしても「小文枝」の名で馴染み深い。それもそのはずで、小文枝の襲名が昭和29(1954)年、文枝襲名が平成4(1992)年、小文枝の期間が38年もある。比べて、文枝は亡くなるまで13年と、三倍近い時期を小文枝として愛されたのだから、それも仕方のないところか。

 文枝への聞き書きを元に小佐田貞雄が編集した『あんけら荘夜話』については、昨年8月に四回に渡って紹介した。

2013年8月4日のブログ
2013年8月6日のブログ
2013年8月10日のブログ
2013年8月24日のブログ

 この記事を書いたことで、釜山を巡り数名の方からコメントなども頂戴した。多持少年が小学五年生と六年生を過ごしたのだが、当時数多くの日本人が敗戦前に大陸に渡ったことに思いを馳せた。

 釜山にご興味のある方は、昨年もお世話になった「釜山でお昼を」のサイトをご覧ください。当時の写真などが数多く紹介されています。「釜山でお昼を」のサイト

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『あんけら荘夜話』(桂文枝、編集小佐田定雄、青蛙房)

 長谷川多持少年時代の姿に、戦前の大阪の子供たちの遊びの様子が伝わる。あらためて『あんけら荘夜話』からご紹介。

「遊びに行く」と言っても子供のことですから、ただただぶらつき歩くだけなんです。千代崎橋という橋のたもとに「いろは」という肉屋さんがあって屋根に時計台のある立派な家でした。古い大阪の人やったら、千代崎橋の「いろは」の時計台ちゅうたら知ってはりますわ。そこからずっと商店街に入って行くと、川っぷちにボート乗り場があって、そのボートに乗ったりもしていました。十銭ぐらいの小遣いを握りしめて行けたら上等でね、たまになんかの間違いで五十銭もあってみなはれ、大名気分です。一日遊んでおつりができました。
 (中 略)
 小学校三、四年になると日本橋(にっぽんばし)に「五階百貨店」という古道具を売っている所があって、ハガネを売ってました。それを買うて来て、自分で研いでナイフにするんです。藁で鞘を造ったりしました。大工さんが仕事してるとこから長い太い釘をとって来て、その先をたたいてつぶして、火で焼いてノミを造ったりもしました。そのノミで電信柱に五センチぐらいの深さの穴をあけます。その上に電柱と同じような色を塗った板を当てて蓋をして自分の宝物を隠すんです。そのころの子供は“自分の電信柱”というのを自分でつくってたんですな。昔の電柱は木の柱でしたから、こんな遊びもできたんですけど、今のはコンクリートですからね。穴をあけようと思うたらドリルが要りますわ。今の子供たちは気の毒ですな。



 前半に出てくる、千代崎橋と時計台のある「いろは」の写真を、大阪市のサイトで発見したのでお借りした。リンク先のページの「千代崎橋_むかし」という写真。大阪市サイトの該当ページ
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 本当だ、屋根の上に立派な時計台が見える。子供の目には、時計台が大層高く、立派に写ったことだろう。

 電信柱に自分の玉手箱を作る、なんてことはもちろん今はできないなぁ。私が子供時分の電信柱は木に真っ黒なコールタールを塗ったものが多く、触るのに気が引けた。

 多持少年の釜山時代の生活については、昨年8月6日のブログをご覧いただくとして、釜山で小学校を卒業することになる多持少年の、その後の行方はどうなったのか。

 長い長い釜山の二年の時が流れて、いよいよ小学校を卒業することになりました。一応は「兄」の行っていた釜山の商業学校の試験も受けたんですけど、試験の結果も聞かずに大阪へ帰ることにしました。もう帰りたい一心で固まってましたからな。帰れる時に帰っとかんと、また帰れへんようになりますからね。昭和十八年の三月のことでした。
 大阪へ帰ってからは天王寺商業に入ったんですが、二十年三月二十六日に神奈川県藤沢の海軍に入隊しました。かくして海軍三等水兵の誕生です。水平のくせに船には乗りませんでした。もう終戦の年でしたから、乗る船がなかったんです。隊の番兵の銃も木で形をこしらえたしろものでしたから、船なんかあるはずがない。結局、藤沢へ行ってもシャベルを持って穴を掘ってばかりの毎日でした。
 当時の少年はみんな予科練とか航空兵にあこがれて、映画でも、そんな内容のものばっかりでした。戦争に負ける・・・てなことは考えてもなかったころですから、単純に「格好ええなあ」と思ってあこがれたんです。それに加えて、友達がたまたま試験を受けるということを聞いたんで、いっしょに行くことにしたんです。結局、その友達のほうは試験にすべってしもうて、少年兵にはなれずじまいでしたが・・・。
 八月十五日・・・終演の玉音放送を軍隊で聞いて、そのあとすぐに大阪へ戻って来ました。


 多持少年が玉音放送を聞いたのは、大阪ではなく藤沢であった。短い、船に乗らない水兵生活が終って大阪へ帰ってからの生活はどうだったのか。

 なぜ、多持少年が落語の世界に入ることになったのか。そこには、よくあることだが、人との縁が大きく関与している。

 学校には戻らず進駐軍のアルバイトなどをしていた多持少年。縁があって彼は交通局に勤めることになった。そこで、落語との縁結びをしてくれる人物との運命の出会いがあったのである。

 交通局に入ったのは昭和二十二年の春のことで、電気工場に配属されました。モーターとかコントローラー、ブレーカーを修理する部署です。この工場は建物の二階にあって、階下が機械工場でした。工場から現場へ貨車にいろんな品物を乗せて運ぶ「運搬部」というのがあって、その運搬部員の中に矢倉悦夫君という、おもしろい男がいたんです。
 彼は戦争中からの局員で、昼間は交通局に勤めながら夜は学校へ行く・・・と家族には言いながら、実は桂米團治師匠のところへ落語を習いに行ってたというあっぱれな人物です。そのことが新聞に紹介されたのが、私と出会うきっかけになりました。
 そのころ、私は「踊りを習いたい」と思うていました。と言っても踊りの師匠になろうとか、プロの舞踏家になろうとかいうようなつもりはありません。「ちょっとした趣味に・・・」という気持ちだったんです。ところが、芸の世界とは全く縁のない生活をしていたので、どこへ頼みに行ったら教えてもらえるものかもわかりません。その時に矢倉君の存在を知ったのです。
「落語をやってる人やったら踊りも知ってるやろ」
 というようなことで紹介してもらいました。
 私は浪曲が好きでしたから、矢倉君ともよく浪曲の話をしました。彼も浪曲が好きでしたし、都家三勝という浪曲の息子で横田君という人と学校友達でした。この横田君は、のちに米團治師匠の弟子になって「米歌子」(べかこ)という名前をつけてもらいましたが、すぐに廃業しています。
 子供のころ、うちの親父が浪曲が好きで、町内にあった浪花節の小屋へ連れて行ってくれていました。また、ミナミの十銭漫才の小屋へも連れて行ってくれたらしんですけど、あまりに小さいころだったんで、どんな人が出ていたかまではおぼえていません。芝居も好きで、大正区の松島の小屋へ新派の梅野井秀男なんかを見につれて行ってもらったこともありました。
 落語で記憶に残っているのは、親父が蓄音機を借りて来てくれて、それで初代春團治の『宿替え』なんかを聞いたことです。当時の私の落語についての知識というのはその程度のものでした。
 私が矢倉君に、
「踊りを習いたいんやけど、誰かええ師匠はいてはらへんやろか?」
 と相談すると、「それやったら、ええ人がおるわ」と、紹介してくれたのが、花柳芳兵衛師匠と坂東三之丞こと四代目桂文枝師匠でした。で、うちの師匠のほうが地理的に通いやすい・・・というだけの現実的な理由で、文枝師匠に入門することに決定したんです。



 多持少年は、浪曲が好きだったんだ。お父上の演芸好きの血も引いているだろう。

 新派を見に行った松島は遊郭もあった歓楽街。東北芸術工科大学の東北文化研究センターのサイトに、松島にあった八千代座周辺の写真があったのでご紹介。
「東北芸術工科大学・東北文化研究センター」サイトの該当ページ
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 右にあるのが八千代座のようだ。きっと、このような雑踏に紛れて長谷川さん親子は新派を見に行ったのだろう。この写真は絵ハガキにあったもののようだが、同じように絵ハガキの八千代座近辺の写真が、大阪市立図書館のサイトの「Webギャラリー」にもあって下記のページで確認できる。ご興味のある方はご覧のほどを。(残念ながらコピーはできない)
「大坂市立図書館・Webギャラリー」サイトの該当ページ

 さて、小さな頃から父親の影響もあって演芸が好きで踊りを習いたかった十七才の長谷川多持が、交通局で矢倉悦夫という生涯の友人と出会うことで、四代目桂文枝との縁につながった。

 矢倉君のほうは米團治師匠から落語は習ってましたけど、完全なプロということではありませんから、師匠について寄席をまわらなければならないということはありません。昼間はまじめに交通局員として働いて、夜だけはなし家に変身していたんです。
 私の場合、師匠にべったりつくようになってましたから、旅巡行の仕事が入ったりすると、かなり長い間、交通局へ行かないということになります。交通局へ行っても、ひまを見ては市電のモーターを乾燥させる部屋へ矢倉君と二人で入って落語の稽古です。ここへは、めったに誰も入って来ませんでしたからね。稽古をすると喉が乾きますそこで、時どきは部屋の外に出て、冷たい水をやかんの口から飲んでは、また乾燥室に入る・・・というようなことをしてました。周りの人が見たら不思議でしたやろな。
「あいつら、なにしとんねん?」
 そんなこんなで、結局はクビ・・・とまではいきませんが、退職届を出さなくてはいけないことになってしまいました。二十三年のことです。


 交通局では一年未満の勤務の場合、貸与されていた作業服や工具の代金を返却しなければならないので、少ない退職金から代金を差し引くとマイナスになり、多持の退職金で一杯飲めるのを期待していた矢倉君や六代目松鶴をガッカリさせた。

 交通局にまだ籍がある間に、多持は噺家としての名を持つことになる。

「桂あやめ」誕生 
 
 文枝師匠にはなし家として正式に入門したのは、二十二人の四月です。その前から通いはしてましたけど。「桂あやめ」という芸名をいただいたのは四月でした。
「あやめ」というのは、文枝師匠が前座の時につけてもらっていた名前です。師匠が三代目文枝師匠のもとに入門したのが五月だったので、そう名付けられたとうかがいました。師匠は「阿や免」という字やったんですが、私は平仮名で「あやめ」でした。
 交通局をやめてから、文枝師匠のお宅へ内弟子として住み込むことになりました。師匠に仕事が入ると、私も前座として出演させてもらっていました。ギャラは私の分も込みで師匠が受け取ります。私は師匠の家に住み込んで、師匠の身のまわりの世話をするかわりに、ごはんを食べさせてもらう・・・ということでした。
 私が「桂あやめ」として初舞台を踏んだのは二十二年五月二日の「上方落語を聞く会」だったと思います。会場は大阪文化会館(現在の精華小学校)でした。五代目松鶴師匠が二席やらはって、前座で旅の噺をしてはったように記憶しています。それまでは「大阪落語を聞く会」というタイトルでやっていた会が「上方落語を聞く会」と名前を変えての第一回目だったはずです。私の演じたネタは『小倉船』。矢倉君も見に来てくれました。私の名前は番付には載っていません。
「憶えたし、いっぺにゃってみい」
 というような調子で、開演前の“ご祝儀”としてやらしてもらいました。
『小倉船』という噺は、途中に踊りの手が入ったり、芝居がかりになったりする噺なんです。ほんまは、手ほどきとしては難しすぎるネタなんですけど、私が踊りの稽古をしてた関係もあって、このネタを最初に教えてくれてたんです。


 ちなみに矢倉悦夫は、職業落語家になることはなかたが、三代目桂米之助を名乗ることを許されていた。文枝にとっては、重要な人物と言える。

 五代目松鶴の名が登場した。六代目よりも文枝は五代目松鶴に似ていると言われた。それだけ大きな影響を受けたのである。

 その五代目との仲がもっと濃くなる契機が訪れた。戦後の上方落語界においては、結構大きな動きがあった。

新生浪花三友派

 二代目春團治師匠が五代目松鶴師匠と仲たがいして、戎橋松竹をやめることになりました。二代目と二代目の参謀役の花月亭九里丸さんが「新生浪花三友派」というのをこしらえて、松竹から飛び出したんです。二十三年のことでした。
 なんにせよ、戦後のあの時期にせっかく落語の定席ができたというのに、そこを出て、いわば端席を転々として行こうというわけです。だいたい分裂したというのも落語に対する考え方の相違・・・というような問題ではなかったようなんです。五代目についていくのがけったくそ悪い(おもしろくない)というんで、九里丸さんが二代目を煽動して別派をたてたのが始まり・・・という話も聞きました。戎橋松竹を作る時に一番活動したのは九里丸さんなんですよ。五代目が中心にはなったけど、実際に動いたのは九里丸さんでした。それだけの功績がある人やのに、自分でこしらえあげたものを自分でつぶしてしまうんですよ。じっとしてられない性格なんでしょうね。
 その時、うちの師匠も二代目の派に加わって五代目とたもとを分つことになりました。うちの師匠が、
「おまえもいっしょについて来い」
 と言うてくれはったんですが、私は、
「こっちに残って落語を勉強します」
 と言って、ついて行かなかったんです。これは師匠に対する大きな反抗なんですけども、なぜそういう気持ちになったかというと、そのころの私は師匠よりも五代目に頼る気持ちのほうがきつくなっていたんです。
「戎橋松竹で勉強したいんです」
 と私が言ったら、師匠が五代目に、
「あやめが、こう言うとる。竹内さん(五代目の本名)引き受けてくれるか」
 と話をしてくれました。五代目も、
「ほんとはできないことやけども、わしの師匠の四代目松鶴も一時、文枝師匠のもとへ預かり弟子になって『枝鶴』という名前になってた時期もあったさかい、あやめがそこまで言うのやったら、うちで預かることに支障はないやろ。瀬崎さん(うちの師匠の本名は瀬崎米三郎といいました)、安心して行きなはれ」
 と言ってくれました。五代目にしたら、戎橋松竹でせっかく団結してやろうと思っているところかえあ、分裂して出て行くんですから決しておもしろいことはなかったと思います。


 このときの師匠四代目文枝と五代目松鶴との大人の対応、なかなかできるもんじゃない。

 さて、上方落語界の首領たちの政治的な駆け引きによる大きな変化の波の中、若手は若手で活動を始めた。

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露の五郎著『上方落語のはなし』(朝日新聞社)

 露乃五郎兵衛が露の五郎の時期に書いた『上方落語のはなし』から、若手の胎動について紹介したい。平成4(1992)年発行。名前などは本書のまま引用しているので平成4年当時である。

さえずり会
 
 昭和二十三年、大阪の落語家は二派に分かれました。まあ、はっきり言うたら、戎橋松竹へ出演する組、しない組。露骨に言うと、松鶴派と春団治派、となりまんのやろなあ。けど、若手は違いました。
 五代目松鶴の息子、松之助がこの年、名を光鶴(故六代目松鶴)、二代目春団治の息子小春(現三代目春団治)、文枝の弟子あやめ(現小文枝)米団冶門下の米朝、米之助、豆落語家で五代目松鶴の孫(光鶴の姉の子)の小つる(現イラストレーターでエッセイストの和多田勝)に、講談の旭堂小南陵(現南陵)を加えた七人が、さえずり会という若手という若手ばかりの会をこしらえて、戎橋松竹で日曜日の午前中に行われる新人会や森小路の好尚会という発表の場で腕をみがいてました。親同士、あるいは師匠同士は二派に分かれていても、子は、弟子は、がっちり手を握ってたんでおます。

 

 この時、春坊と名乗っていた五郎は、さえずり会に入っていない。何をしていたのかは、五郎のことを書くときにご紹介することにして、戎橋派、反戎橋派に分かれようと、文枝を含む若手が動き出したことが、その後の層の厚さにつながっていく。さえずり会には、その後、上方四天王と言われる噺家が含まれている。

 小文枝襲名以降、彼を含む四天王を中心に上方落語界は息を吹き返していく。


 五代目文枝のことを思うと、父親の芸能好き、交通局での矢倉悦夫との出会い、踊りの名手四代目文枝への入門、上方落語界分裂騒動を機にした五代目松鶴への接近、若い頃に出会うことができた好敵手、などが彼の芸を形づくる背景に流れていたということだろう。文枝の襲名披露興行は神戸から始まったが、それは苦しい時代の支援者への恩返しのような意味があったようだ。すべからく“縁”を大事にした、ということだろう。

 果たして、今の人気者の噺家たちは、そういった出会いをどれだけ大事にしているだろうか。そんなことも思わせる文枝の命日である。
by kogotokoubei | 2014-03-12 19:15 | 今日は何の日 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛