噺の話

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2013年 10月 05日 ( 1 )

 『笑点』がおもしろかった時代もあった。

 特に印象的だったのは春風亭梅橋(前名は柳亭小痴楽)と三遊亭小円遊(四代目)がレギュラーだった時期である。 
 10月5日は、その小円遊の命日。昭和12(1937)年8月3日の生まれなので、談志の一つ下、志ん朝の一つ上である。昭和55(1980)年の10月4日、山形の落語会の楽屋で吐血し病院に運ばれたが翌朝未明に食道静脈瘤破裂で、同じ公演に出演していた同年齢の林家木久蔵に看取られ、満43才といいう若さで旅立った。ちなみに、梅橋も昭和59(1984)年の1月に肝硬変で49歳で亡くなっている。

 小円遊は、昭和41(1966)年の番組開始から亡くなるまで出演している。もっと言えば旅立った当日10月5日の放送でも、ハワイでの収録が放送され、テロップで亡くなったことが報じられた。翌週も彼の映像を含め放送された。

 “キザな小円遊”という役づくりは、同番組を企画した初代の司会者立川談志の発案によるものだ。

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『談志楽屋噺』(文春文庫)

 『談志楽屋噺』(初版は昭和62年白夜書房発行)に、小円遊のことについて書かれた部分があるので引用したい。「第一章 狂気と冒険—若くして逝った芸人たち」から。

 小円遊の金遊に、テレビの『笑点』であのキャラクターをつけたのは、私だ。なに小円遊ばかりではない。全員につけた。円楽は物識りでいけ、こん平はバカでいけ、歌丸は常識的に、というふうに彼らの地を生かしてキャラクターを鮮明にさせたのが当たった。
 (中 略)
 その頃はメンバー全員『笑点』の問題を一所懸命考えてきたもんだ。答えを持ち寄りアドリブはいっさい無しで、全部演出、その基は作家とメンバーが創り、それを割りふった。それでもいい。あの番組に基本はウィットにあったので、こんなときはこういうことを言おう、というWIT(ウィット)、それを許すユーモアにナンセンスを加えた番組だった。
 諺のパロディにこんなのがあった。
「よしのずいより天井のぞく」にあらず「よしのずいから戦場のぞく—大森実」だとか、「老いては子に従い」は「老いても子に従わず—美空ひばりのおっかさん」、傑作に「弘法も筆のあやまり」が何と「暴行も筆のあやまり」


 最後のネタなどは、現在のあの番組ではNGだろうなぁ。そういうネタに関するテレビ局側との見解の不一致が理由だったようだが、談志は三年半で司会を降りている。その後、前田武彦が一年間ショートリリーフを務めてから三波伸介が昭和45(1970)年に三代目の司会者となった。三波の司会は昭和57(1982)年まで12年間続くことになる。

 この三波伸介の司会の前半は私が高校時代で、日曜夕方が楽しみだった時期である。昭和45年、小円遊は33歳。だから彼の三十代半ばの水色の着物姿が脳裏に焼きついているということか。若かったんだねぇ。

 さて、小円遊について談志は、どんなことを書いているのか。

 小円遊は気が小さいから、酒飲んで威張っていた朝之助とよく似ている。そのうちに売れてきて、私が煙ったくなってきたらしい。もっとも私はその頃からいま同様いつも威張っているから、まぁムリもない。加えて高座の落語にまでお客がTVのキャラクターを要求してくるから、習い覚えた落語とつながらない。それで、高座へ出なくなった。
 (中 略)
 その頃、私は『笑点』の司会をやめていた。私の意図であるブラックユーモアが駄目だといわれ、メンバーを総入れかえしたが、うまくいかず、私は毒蝮とやめた。そんな時期に電車の中で小円遊に会った。
「おい、だめだぞ、金ちゃん、高座へ出なきゃ」と言ってやったら、小円遊、
「兄さんだって出ないじゃありませんか」
「バカヤロウ、お前とは芸の質が違う」ってよっぽど言ってやろうかと思ったが言わなかった。


 朝之助とは、この章で最初に取り上げられている人で、三代目の小円朝の弟子。談志と同年齢で噺の稽古をし合う仲だったが、酒やギャンブルにおぼれて身をもちくずし、若くして亡くなった人。

 小円遊の酒は、談志には、若き日に身近にいて亡くなった友人の姿を彷彿とさせたのだろう。だから、小円遊が亡くなり、彼にもっとしてやれることがあったのではないか、と悔やむのだ。

 私も嫌がられようが、うるさがられようが、親切に最後までそばにいてやればよかったんだろう。そういう悔やみがくどいようだがいまもある。少なくとも朝之助、大助、梅橋、小円遊にはそばにいてやるべきだった。

 
 晩年の談志からは、同じ人が書いた文章か、とも思わせる。しかし、談志という人もある意味“気の小さい”人で、虚勢を張りながらも、心の中にはこういった繊細さを持った人なのだと私は思う。

 大助とは朝之助との共通の友人の井上大助という俳優。東宝の中学生役で、当時の雑誌『平凡』の表紙にまでなった売れっ子だったが、成人して次第に売れなくなり、酒におぼれ、一時は精神病院に入った。四十前後で焼酎を飲んで胃の薬を飲んで“コロッ”と亡くなったらしい。


 小円遊が亡くなった時、番組では喧嘩相手という役割にあった歌丸が号泣したと言われている。同じ芸術協会の仲間として、きっと小円遊を心配する思いも強かったに違いないし、高座に上がるよう忠告したこともあるだろう。
 そして、何より本人の持ち味に近かったのかもしれないが、“キザな小円遊”というテレビ向けのキャラクターで人気は出たものの、落語を磨く上で、その虚像が大きな障害になっていたことを、歌丸が十分すぎるほど分っていたからこその、涙であったように思う。


 最後に四代目三遊亭小円遊の『引越しの夢』を聴いて、偲びたい。実にこれがいいんだ。


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by kogotokoubei | 2013-10-05 16:23 | 今日は何の日 | Comments(8)

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by 小言幸兵衛