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噺の話

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2012年 10月 18日 ( 1 )

文菊の真打昇進披露興行の真っ最中に、師匠の圓菊が亡くなった。先日も引用した『背中の志ん生』から、著者である圓菊自身の真打昇進披露のことを紹介したい。
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古今亭圓菊『背中の志ん生-師匠と歩いた二十年-』(うなぎ書房)

負んぶ真打
 私が真打になったときの披露宴(昭和41年8月)は、上野の精養軒でやりまして、師匠もきてくれました。でも、九月からスタートした定席での披露口上には、もう歩けなくてだめだった。
 師匠が真打になったとき(大正十年九月、金原亭馬きんで真打昇進)の披露宴を精養軒でやるということで、精養軒さんがそのとき、特別に赤飯を炊いて祝ってくれたっていうんですよね。
 私のときも焚いてくれ、私の弟子が真打になったときも、じゃア、ってんで赤飯炊いて出してくれましたよ。
 披露宴で東宝の重役で、馬渕威雄さんという人が祝辞のなかで、
「この人は背中で芸を覚えたんだ」
 ということをいってくれたんです。それがいまだに「背中の志ん生」につながって生きてるんだとおもいますね。
 苦節十三年、真打昇進、二代目圓菊襲名。
 正式の高座での披露口上は、馬生師匠が代わりについてくれて、圓生、正蔵が会長、副会長ということで、上野鈴本演芸場、人形町末広、新宿末広亭、池袋演芸場、浅草演芸ホールなど、ずっと回ってくれました。そのころは人形町末広もまだありましてね(昭和45年1月20日廃業)。
 いずれにしても、そういう祝いの席に師匠が出てきたのは、私の披露宴が最後だったかもしれないですね。

 
 文菊と志ん陽の合同の披露も、今年8月27日に精養軒であったようだが、圓菊が同席できたのかどうか知らない。いずれにしても、志ん生—圓菊、圓菊—文菊は、披露興行の口上において師匠が不在であったという、同じような歴史(?)を継承している。

 圓菊の披露興行における口上の内容も、本書には掲載されている。

口上

初秋の候皆様方にはお変わりなくお過ごしの事と存じ上げます
さてこのたび古今亭志ん生門下むかし家今松儀 二代目古今亭
圓菊を襲名いたしここに目出度く真打昇進ということになりま
した
だいたいこの圓菊になりました人は 人間が少々真面目すぎて
いけませn 落語家はいくらか狂ったところがないといけない
ことになっておりまして この改名を機会に当人もこれから大
いに道楽もいたし悪事に励み・・・いや芸道に精進いたすでござい
ましょう
何卒この二代目圓菊を末長くご贔屓お引き立てのほどを伏してお
願い申し上げます
                
                               三遊亭圓 生
                               林 家正 蔵
                               古今亭志ん生
                               金原亭馬 生



 並んだ名前が、凄いこと。
 本書には、正蔵、本人、馬生の三人が並ぶ写真が掲載されているが、皆さん若い!
 しかし、真打昇進基準に厳しいあの人は、こんなことを言っていた。
 

師匠が落語協会の会長(昭和三十二年~三十八年)で倒れたため、もう辞めるってときに理事会で、
「うちの今松は一生懸命やってくれる。すまないけど、真打にしてもらいたいんだが、どうだろうか」
 といって話したら、
「そうしましょう」 
 ってんで、みんなが満場一致で真打にしてくれたんです。師匠の推薦で昇進したんです。ところがまわりからは、
「あれは本当の真打じゃねえ。師匠を負ぶって真打になったんだから“負んぶ真打”だ」
 ってことになっちゃった。うちの師匠のあと会長になっちゃった圓生師匠にも、
「あれは古典落語じゃござんせん」
 などといろいろいわれました。



 圓生なら言いそうな科白である。

 いまでもそうですけど、真打になってもうまくないのは二つ目より前に出されたり、そういう扱いをされちゃうんですよ。
 で、私もそういう扱いをされた。後輩の二つ目が私より深いところ(寄席の遅い出番)に出るわけです。悔しいですよ。真打になっても四年間は二つ目扱い、上野(鈴本演芸場)は出してくれなかったし・・・・・・・。
 前座から二つ目になるとき、お祝いとして先輩の二つ目さんが二本か三本奥へ入れてくれるんですよ。寄席では、私が二つ目になったとき(昭和三十二年三月、むかし家今松)、談志さんと柳朝さんが、
「よーし、あいつ、二つ目になったんだから、前でうんと演って食っちまおう」
 ってわけ。それで二人が上がるんですが、私のほうがはるかにうけちゃった。
 どういうわけかうけるんですよ、いつも・・・・・・。それから、席亭からも文句、いわれなくなっちゃった。
 それくらいお客さんに必ずうけるんですよ、私は。だから真打になったとき、そんな扱いをされるとはおもわなかった。


 二つ目時代の圓菊は、談志や柳朝が、「食ってやろう」と思うだけの技量があった、ということだろう。
 「なぜかうける」という独特のフラが、その当時からあったのだろうなぁ。

 しかし、真打になってからの環境は、決して甘くなかった。 

 浅草(演芸ホール)さんにしても、やっぱり浅いところ(早い時間の出番)ばっかり。これは若手真打だから、二つ目の次に出ますよって、だけど、私はお客さんが三人しかいないときでも、精いっぱい演った。池袋(演芸場)でもどこでも必ず一生懸命演ってね。で、演芸ホールの門馬さんって支配人から、
「師匠が最初に笑わしてくれないと、あと、客が笑わなくなっちゃうから。頼むからちょっとのあいだ、早く出てくださいよ」
 といわれたりしたもんです。
「そんなら三平さんがいまいちばんうけてんだから、三平さんをここに出してからにしたらどうだい」
 なんてことをいったこともありますよ。
 人間、気骨がなくてはいけない。まあ、ちょっとありすぎてもだめなんでしょうけれども、そううこともあっだんです。でも、それがよかったんです。
 当時はそこがわからない。悔しいというおもい、がんばるんだという気持ちをきちっと心に、芯まで植えつけてくれたんだなあというようなおもいがいまではするわけですよ。

 
 圓菊が味わったようながんばるんだという気持ちをきちっと心に、芯まで植えつけてくれるような試練を弟子たちは味わわないかもしれない。しかし、その生き様に接してきた彼らに、そのDNAはしっかり伝わっているように思う。

 文菊の披露興行、早く行きたくなってきた。
by kogotokoubei | 2012-10-18 22:55 | 落語の本 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


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