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噺の話

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2011年 10月 06日 ( 1 )

10月6日は、先日最後(?)の高座を目の当たりにした桂小金治さんの85回目の誕生日であるが、初代桂春団治の命日でもある。

 本当は二代目だが、通称の“初代”で書くことにする。本名皮田藤吉、しかし、最後の妻・岩井志うとの結婚では春団治が婿入りという形をとったため、本名は岩井藤吉と変わった
 明治11(1878)年8月4日生まれ、昭和9(1934)年10月6日没。その劇的な生き様が映画にもなった噺家を、春団治と三遊亭歌笑しか知らない。


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関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)

 あまりにも有名な逸話が多いが、今回は彼自身のことに限らず、春団治の生きた時代の上方落語界のことを、たびたびお世話になる関山和夫著『落語名人伝』から紹介したい。

 まず、最初に入門されたとされる二代目桂文我が属していた「三友派」の由来を知るために関連部分を引用する。

 桂文枝を桂派中興の祖と呼ぶことに私は異存はないが、実際には文枝には文枝存命中には桂派復興は完成しなかったようである。文枝の偉いところは優秀な弟子を育てて桂派黄金時代の基盤を作ったところにある。どんなに評判を高めても栄枯盛衰は必ずあるものなので、じっくりと将来を見つめて強固な基盤を作ることが一家をなした噺家には必言うであろう。初代文枝はそれをなしとげたのである。文枝門下の四天王は、初代文三(のちに二代目文枝となる)、初代文之助(のちに曾呂利新左衛門となる)、初代文団治、初代文都(のちの月亭文都)である。これらの人々がそれぞれ一家をなして、はじめて初代文枝が目ざした桂派全盛時代が現出したのである。
 ところが、桂派の統一は、間もなく乱れることになる。人間関係は実に難しいものだ。芸人さんというのは、どうも昔から団結しにくいものらしい。個人プレーの世界だからである。極端にいえば同業者は無用で、一人だけの方が都合がよい。私もよく噺家さんから他の同業者の悪口を聞くことがある。あまり気分はよくない。人間の特性が日本の芸人の世界では顕著に露出する。やむをえない。故前田勇氏が書かれた「四鳥の別れ」ということばが印象的である。そのことは同氏著『上方落語の歴史』に記されている。
 東洋に「四鳥の別れ」という諺がある。桓山に棲む鳥が四個の卵を生んだ。親は巣に籠って卵を温めた。温めたほどの卵がすべて孵るとは限らないが、この場合四個とも孵った。親はせっせと餌を運んだ。四羽のヒナはすくすくと成長し、羽翼も生えそろった。最早親は不用であった。四鳥は今やおのが向き向きに飛び別れようとした。親鳥にあるものは喜びではなくて、すべてを奪い去られるような深い悲しみであったはずだが、幸か不幸か桂とい梁山泊において、親鳥文枝はこの悲しみを味合わずにすんだ。四鳥が飛び別れる前に彼が死んだからである。
 この譬喩は適切である。初代桂文枝門下の四天王は、右の四鳥にあてはまるが、その四鳥が三鳥となり、さらにその中の二鳥が対立してしまう。仏教的にいえば、まさに“娑婆”である。
 初代文枝が没して、すぐ問題になるのは一体誰が二代目を継ぐかということだ。襲名はうまく、すんなりと決まることもあるが、兄弟弟子が多く、ライバルがあると紛糾するものだ。現にその問題は東西の落語界で噂にのぼること頻りである。初代文枝の門下で二代目を襲うものは誰か。この争いは文三と文都の間で行なわれた。

 
 年齢も同じ、明治5年の入門も同期の二人による二代目文枝襲名争いは、文三の勝利に終った。この後に続く文都の桂派離脱、新チーム(?)結成に見られるように、襲名に関し弟子達が仲違いをするほど、文枝という名跡は大きい。それに比べて六代は、あっさり決まりそうだ。くどくなるが『三十石』も『立切れ線香』もできない文枝を、私個人としては全く認めない。今になって思うと、その後の紳助騒動の発覚の前に、吉本が世間の目をくらますためのネタのような気もしてきた。まぁ、それは勘ぐりすぎかもしれないが、誰かが少しくらい三枝の襲名に異を唱えてもいいような気がするなぁ。バラエティ番組では引き続き三枝を名乗るようなことを言っているようだが、言語道断であり、文枝の名を汚すだけである。五代目の未亡人や吉本のバックアップがあろうと、襲名後はセコ文枝と呼ばせてもらう。誤解なきよう願いたいが、三枝の創作能力と実績は評価している、しかし、上方落語の演者としては、とてもとても・・・・・・。
 話を戻そう。文枝を継げなかった文都がどう行動したか、というところから。

 文都が桂派を離れたのは当然のなりゆきだった。彼が月亭文都と名乗ったのは、「月桂」の語から「桂」よりも「月」を採ったからである。文都はこのころ「月なくて何の桂か」と言ったという。
 (中略)
 二代目文枝襲名に敗れた月亭文都のファイトは、すさまじいものであった。どうしても桂派に対抗して、一旗あげたかったのである。明治25年は、二代目文枝、月亭文都ともに49歳で、人生の峠と登りつめたころである。文都は明示25年4月に三代目笑福亭松鶴と手を握った。三代目松鶴は、二代目文枝の社中に入った恰好で、数年前から文枝の根城である金沢亭で真打ちをつとめていたのだが、文都と通じているということで文枝からにらまれていたようである。かくして松鶴は文枝と訣別した。さらに文都はこの年の10月になって二代目桂文団治とも手を握ることができた。桂文枝にとっては、次から次へといやらしい事件がおこったのである。続いて文都は笑福亭福松というすばらしい噺家を味方にする。
 「浪花三友派」という名が起こったのは、明治26年のことで、明治27年正月興行には大阪南地法善寺内の紅梅亭と松屋町神明社内の吉福亭などに「浪花三友派」の看板があがった。浪花三友派の三巨頭といわれるのは、月亭文都、笑福亭福松、二代目桂文団治の三人だが、三代目笑福亭松鶴、五代目笑福亭吾竹、桂文我も加入していた。


 ようやく「浪花三友派」の名が登場した。上方の落語界はこの後、さまざまな離合集散の歴史を辿り混乱に陥るのだが、そんな中で初代春団治の名が登場する。

 上方落語界の混乱期は、歴史的に見るとなかなか興味深いものがある。大正11年9月1日花月連、三友派連合の中に三代目桂文団治、桂枝雀、桂枝太郎、四代目笑福亭松鶴、二代目林家染丸、二代目桂三木助、露の五郎、桂春団治、二代目桂小文枝、文の家かしく、橘ノ円都などの名が出てくるが、いうまでもなく桂春団治が異彩を放つ。
 この春団治については余りに多くの記述があるので、私がここで改めて述べるまでもない。私の調べでは、春団治は明治28年に十八歳で三友派の二代目桂文我に入門し、桂我都と名のっている。そのころ彼は修業によく励み、たくさんの咄を早くおぼえてしまったという。そのためなのか、普通は十年くらいかかる前座の生活を五年で通過し、二十三歳で中座(二ツ目)級に達したという。今の上方落語界に東京のような前座、二ツ目、真打などの区分が不明確なのは、私にはいささか気にかかるところだが、そのことについてはここでは触れない。明治35年、二十五歳になっていた桂我都は三友派の総帥二代目文団治の門に移っている。これは、もとの師匠の文我が、弟子の我都を文団治に託したのである。その理由については、我都に噺家としてのすぐれた素質があるので本格的に修業をさせたかったからだという説と、我都は行動や思考に無茶苦茶なところがあるから手におえなかったのだという説とがある。二代目桂文我という噺家の人柄をしのぶ上でこの二説は面白い。前説をとりたいところだが、どうであろうか。
 いずれにしても我都が文団治の門下に入ったことは彼の将来のために幸いしたようである。彼は翌明治36年に二代目桂春団治を襲名した。しかし、のちに人々は彼を初代春団治と呼ぶようになった。余りに名が売れたからだ。


 この後に著者の関山和夫さんは、人気が出たからと言って、本来は二代目なのに「初代」と呼称することには異を唱えている。例えば八代目文楽は、正しい代数では六代目になるはずなのだが六と七を飛び越えて、縁起の良さから八代目を名乗った。これは、まだ歴史上の噺家を抹殺(?)したことにはならない。たしかに、実際に存在した初代を歴史から消してしまうことは、本来許されないことだろう。とは言っても、本人が初代を主張したと言うよりは、世間がそう認めたというのが実態に近いような気がする。

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今村信雄著『落語の世界』(平凡社ライブラリー)

 ちなみに、今村信雄さんは『落語の世界』の中で、次のように「二代目」としている。

 二代目桂春団治(本名岩井藤吉)は、明治11年に大阪南区高津二番町の金唐革(きんからかわ)商皮友の11人目の子に生れた。14、5歳の時、大工の小僧にやられたが、職人を嫌って、18歳の時に落語家桂文我の門に入り、我都という名をもらった。前座を勤めること七か年。—それは本人も余程辛かったと見え、「おれは弟子達に、そんなに長いこと前座をさせてはおかん」と後にいっていた—二十四の時ようやく二ツ目になったが、この年文我の門を去り、文団治(七代目文治)の弟子になって、二代目春団治をついだ。



 関山和夫さんと今村信雄さんでは、春団治の前座期間に違いがあるが、いずれにしても他の前座よりは短かっかたが、当人としては長く感じた、という理解くらいでよいだろうと思う。

 春団治の時代の上方落語界を少し振り返るだけで、二代目文枝襲名における物語や、四代目の高座を見たばかりの文我に春団治が最初入門したことなどを知ることができる。
  
 春団治のもっとも有名なエピソードは、例の差し押さえ事件だろう。 
 所属していた吉本興業は芸人がラジオに出演すると寄席に客が来なくなる、と思ってラジオ出演を禁止していたにも関わらず、昭和5(1930)年12月7日、春団治がJOBK(NHK大阪)ラジオに出演し、『祝い酒』を口演した。吉本側は激怒し、すぐさま社員が放送を中止させるため大阪のスタジオにかけつけたが、春団治も先手を打って京都のスタジオから放送していたので、蛻のから。吉本は春団治を謹慎処分にしたのだが、この放送の結果春団治人気が高まり寄席に客が殺到した。しかし、吉本は春団治を許さず、彼の財産差し押さえを訴え仮執行が行われた。この際、春団治は差し押さえの紙を自分の口へ貼り付け、「後はこの私を持っていかはったら?」と痛烈な皮肉で抵抗し、このニュースが春団治が差し押さえの紙を口に貼った写真付きで新聞に掲載された。
 吉本と春団治との関係はその後に修復し、吉本はこの事件をきっかけに、逆にラジオに芸人を積極的に出演させ、寄席の集客を増やすという作戦を推進することになる。

 余談だが、吉本は興行という世界にいる以上、歴史的に“その筋”との関係は長く深い。それは吉本に限らない。今の時代に合わせて表面的に「クリーン」なイメージをつくろうとしても、無理がある。そもそも、興行の世界で組関係が中に入ることは、必ずしも悪い面ばかりではなく、過去には必然性があったわけだ。この件は、別途書きたいと思うが、平成の世の吉本が、誰の口に差し押さえの紙を貼ったかは明らかである。
by kogotokoubei | 2011-10-06 01:51 | 今日は何の日 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛