噺の話

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2010年 11月 19日 ( 2 )

初代談洲楼燕枝

 三三が挑戦した『嶋鵆沖白浪』の作者である初代談洲楼燕枝は、天保8年10月16日(1837年11月13日)に生まれ、明治33(1900)年2月11日に没した。本名は長島傳次郎。ちなみに、円朝(本名、出淵次郎吉)は天保10年4月1日と燕枝の二年ほど後に生まれ、亡くなった年は燕枝と同じ明治33(1900)年の8月11日である。奇しくも同じ年に落語界は偉大な柳派と三遊派の巨星を亡くしたことになる。

 安政3(1856)年に初代春風亭柳枝門下で春風亭傳枝を名乗り次に初代柳亭傳枝。そして、文久2(1862)年に真打昇進し初代柳亭燕枝を襲名した時は25歳。今年映画化された『桜田門外の変』があったのは、その二年前のこと。幕末の騒然とした最中での昇進と襲名だったと言えるだろう。
 円朝ほどには燕枝に関して書かれた本は多くないが、それでもその人を偲ぶことのできる本が何冊かある。その紹介のされ方は、どうしても円朝との比較という形式が多いのは、致し方のないところだろう。
 まず最初に、二人の辞世の句の比較から始まり、談洲楼を名乗る背景なども紹介している関山和夫著『落語名人伝』(白水Uブックス)から引用。
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関山和夫『落語名人伝』
 三遊亭円朝の辞世の句「目を閉じて聞き定めけり露の音」には仏教的な“悟り”が感じられて感銘深いものがあるが、談洲楼燕枝が残した「動くもの終りはありてこぶ柳」には悲痛な感じがただよっている。
 柳亭燕枝があえて談洲楼といったのは、むろん市川団十郎から来ているのだが、それが烏亭焉馬への憧憬の志を含んでいることは見逃せない。落語中興の祖といわれる烏亭焉馬は、五代目団十郎に傾倒して談洲楼焉馬と称したが、燕枝は焉馬を追慕したようである。燕枝は若いころから道具入りの芝居噺を演じたが、声色は河原崎権之助(のちの九代目市川団十郎)の真似が一番うまかったという。よほど成田屋が好きだったのであろう。

 円朝の辞世からは“悟り”が感じられ、燕枝の辞世からは“悲痛さ”が感じられるのは何故か、という問題に答えるのは、結構難しい。

 別な観点から燕枝の人柄を察するために野村無名庵の『本朝話人伝』(中公文庫BIBLIO)から引用する。
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野村無名庵『本朝話人伝』
 「円朝は、高座のすがたが余りしなやかで、いささか厭味だと思うくらい色気があった。それからかなり謙遜の態度であった。その反対に、燕枝の高座は頗る傲然としていた。しかし燕枝の傲然さは、しっくり板についていた。円朝には、御召が柄にはまり、燕枝には無紋の黒羽二重がよく似合った。そうして、それがそのまま、二人の芸風であるということも出来ると思う」
 以上は軌道の大通たりし、故人増田竜雨氏の随筆中から、借用いたしましたものでありますが、まことに簡にして要を得たる、適切な批評であり紹介であると思います。実に燕枝は、東の横綱三遊亭円朝に対する西の大関に位し、団十郎に対する菊五郎(芸風はその反対でしょうが)でありました。
 この人、本名を長島伝次郎といい、小石川表町伝通院の生れで、父は長島清助という酒屋さんでしたが、後には今でいう請負師の仕事を始めたので、伝次郎も折には父の代りに現場へ出かけ、監督をしたこともあったと申します。しかし何分にも、幼少から風流を好み、文芸に親しんだ性格が、どうも家業に適しません。帳場にいても暇があれば句案に耽って、浮んだ想を帳面の端にかきつけるというようなこと、運座廻りをして夜を更かしたり、落語が好きで天狗連へ出たり、そんなことをしているうちに、とうとう初代柳枝のところへ弟子入りして、伝枝と名のる身となったのですが、天狗連で場数をふんだだけに進みも早く、二十五の時には真打となって、柳亭燕枝と称しました。
 なれども何分前に述べた二代目柳枝という兄弟子はありますし、当時は色物落語の席も、不振を極めた頃でありましたから、燕枝もかなり苦しんだ時代があり、田舎通りをしたり、道具入り芝居噺で団十郎の声色を使ったり、種々の経験を積んだ末、明治十八年頃には亭号を談洲楼と改め、素噺専門の大真打となったのであります。芸風も一本調子で武士や侠客は巧く描写しましたが、若い娘などは得手ではなく、晩年などは殊に団十郎型の渋好みになり、高尚に過ぎて色気に乏しく、一般受けはしなかったとのこと、しかしながらそのために、今までややもすると下等卑猥の嫌いありし落語が一体に品がよくなったのは、この人の功績であると言われております。

 増田流雨の随筆にある、“傲然な姿がしっくり板につく”高座姿か・・・・・・なるほど。今の噺家さんにおいては、立川流に多いように思うが、“傲然”な高座はあっても、それが“板につく”人は皆無だなぁ。あえて名を出すのなら談春の“傲然”さが将来板についてきたら、少しだけ燕枝の高座姿に似るのかもしれない。そんなイメージである。
 “武士や侠客は巧く描写”、“若い娘などは得手ではなく”というあたりも、談春のイメージとかぶる。三三は、結構若い娘などは巧いと思う。
 さて、燕枝の晩年のことを同じ書から拾ってみる。
 
 かくて燕枝は三遊の円朝に対して、柳派の重鎮と仰がれつつ、自分が談洲楼を名のるに因んで、落語中興の祖人たる、烏亭焉馬の名をつごうと志しましたが、その目的を達せぬうち、明治三十三年の春、痼疾の動脈瘤が次第に重り、病床に呻吟する身とはなりました。
 平素から交際の広かった人とて、見舞客踵を接し、臨終の前日まで枕頭は訪客で賑わったとあり、同年二月二十一日、家族門人囲繞され、本所南二葉町の宅で、遂に亡き人の数に入りました。時に行年六十三歳。葬儀は盛大を極めて浅草清島町源空寺に葬り、法号を柳高院伝誉燕枝居士と申します。

 そうか、最後は烏亭焉馬を襲名したかったんだねぇ・・・・・・。この人のことは詳しく説明しないが、談洲楼を名乗った時から、確かに団十郎つながりで、そうとう焉馬への思い入れがあったのだろう。ただし、焉馬は戯作者であり浄瑠璃作家で、「咄の会」の主宰者として落語“中興”の人ではあっても、噺家として名人という人ではない。大工の棟梁で“お旦”の側の人だったからねぇ・・・・・・。ここでは焉馬のことを詳しく説明しないが、興味のある方には延広真治著『落語はいかにして形成されたか』(平凡社選書)をお奨めする。
延広真治『落語はいかにして形成されたか』

 参考図書の最後に暉峻康隆著『落語の年輪-江戸・明治篇-』(河出文庫)から、今回三三がチャレンジしたネタなどについて書かれた部分を引用したい。
 
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暉峻康隆『落語の年輪-江戸・明治篇-』
 
 もともと彼は俳諧をたしなみ、仮名垣魯文に師事して戯号を“あら垣痴文”と称して狂文を作った。かつ芝居好きであったから、その交際の範囲も円朝と異なり、演劇関係が多く、また森田思軒、饗庭篁村、幸田露伴、久保田米僊、幸堂得知、須藤南翠、関根黙庵などという、いわゆる根岸派の文士と親交を結んでいた。
 したがって円朝にはおよばないにしても、演し物に工夫をこらし、佐原の喜三郎や海津長門の活躍する「島千鳥沖津白浪」(明治二十二年六月春木座上演)や、「水滸伝」の花和尚魯智深の件を翻案し、それに曲亭馬琴原作の「西海屋騒動」をとり合わせた「御所車花五郎」など、彼の苦心の作である。あるいはまた円朝の翻案物に対して、彼もまた『レ・ミゼラブル』を脚色した福地桜痴の「あはれ浮世」を人情咄として高座にかけたりしている。

 以前に井上馨や伊藤博文のことを書いたのは、彼らが円朝と交流があったからだが、政治家との接点の多かったということは、それだけ権力者からお座敷がかかれば出向いた、ということも言えなくもない。あるいは、何らかの意図を持って、時の国のリーダー達とのパイプを作りたかったのかもしれない。
 かたや燕枝の交友関係に政治家の名は現れない。それは、ライバルとしての反応なのか、あくまで燕枝のポリシーなのか・・・・・・。 いずれにしても、その芸、作風、人脈などあらゆる面で、燕枝は円朝を意識しないわけにはいかなかっただろうし、円朝にしても同じだっただろう。それが、ライバル、好敵手というものだから。

 江戸後期から明治にかけて落語の歴史をダイナミックに胎動させるエンジン役であった三遊派と柳派のルーツと言ってよい二人のうち、どちらかというと忘れられていた一方の燕枝の名が、柳派の平成の世の若者の挑戦によって思い出されることはばしいことだと思う。
 そういう意味でも、この度の三三の試みは高く評価されてよいだろう。 燕枝を思うことで、あらためて三三の“快挙”に拍手と、今後の新たなチャレンジへのエールを送りたい。このたびの試みで、しばらく空白になっている燕枝の名跡を継ぐ資格ができた、とも言えるのではなかろうか。
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by kogotokoubei | 2010-11-19 21:21 | 落語家 | Comments(0)
七代目円生襲名問題に関する話題については、落語ファンもそろそろ“どうでもいいよ”的なムードかと思うし、私自身も真面目に何か書くことに疲れてきた。しかし、先日「ふじ特撰落語会」という新たな催しの第一回として、円丈と鳳楽の“対戦”があることを書いたので、一応後日談としてフォローしたい。
2010年10月20日のブログ

 朝日新聞のWebニュースasahi.comに昨夜のことが書かれていた。久しぶりに京須さんのコメントもあったので、後半を引用する。
asahi.comの11月18日の記事

今回は円窓さんが不参加のため、円丈さんと鳳楽さんは、円生襲名をかけた落語会とは位置づけていない。が、フジテレビアナウンサーを交えた鼎談(ていだん)では、襲名問題の足踏み状態が続く現状を説明し、それぞれの正統性を改めて主張した。また、鳳楽さんは円窓さんから「円生を継ぐ」旨の文書が送られてきたことも明かした。

 終演後、鳳楽さんは「8月初旬に関係者が集まろうとしたが、円窓さんからは返事がなかった」。円丈さんは「今後も、襲名問題はオープンにしていきたい」と話した。

 落語プロデューサーの京須偕充(きょうす・ともみつ)さんは「襲名は衆目の認める芸や人気のある落語家がするもので、闘って決めるものではない。またメディアが襲名問題を興行化するのは好ましくない」と話している。


 今回の京須さんのコメントで同感できる点は、「襲名問題を興行化するのは好ましくない」の部分。まったくその通りであって、本人同士に戦う気があって精魂込めて高座をつとめるのならともかく、この記事の二人の和気藹々といった写真を見るだけで、この会が“円生”という名跡をダシに使ったただの“二人会”であることは明白。
 塚越という「お台場寄席」の“ナビゲーター”がこの会をナビゲートしているのなら、まったく悪い方向に誘導していると思わざるを得ない。たまにはなかなかいいことも「お台場寄席」のマクラで言うことがあるが、基本的にはしゃべり過ぎ、出しゃばり過ぎなのだ。だから、こんな会を企画してしまうんだよねぇ。
 
 さて、この記事には円窓が本気であるような情報もあるが、そうなら相手に誘われたら堂々と受けて、自分の主張を明確に伝えればいいじゃないか。この人は、やはりよく分からない。円丈のオープンな姿勢とは対照的だ。

 まぁ、こんな茶番はどうでもいいけど、円生という名跡は決して軽くはないので、その名を語って何かを企む動きはウォッチしておこうと思う。

 紀尾井町で柳派のルーツである談洲楼燕枝の大作の仕上げに三三がチャレンジしていた時、神楽坂では三遊派の大名跡をダシにした、まったく“チャレンジしない”二人会があったわけだ。ますます柳と三遊の差は広がるだろうと、ある意味で寂しい思いがする。ライバルが切磋琢磨しなけりゃダメなのよ芸もスポーツも!
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by kogotokoubei | 2010-11-19 11:42 | 襲名 | Comments(4)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛