噺の話

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2009年 02月 09日 ( 1 )

夏目漱石と落語

先週7日(土)、私は吉祥寺にいたのだが、漱石ゆかりの土地である新宿では区の主催で『漱石千思万考』というイベントが開催されたようだ。企画メンバーの一人である大友浩さんのブログによると、次のようなプログラムだったらしい。
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○日時:2009年2月7日(土) 14:00開演
○会場:四谷区民ホール
○主催:新宿区
○制作:社団法人日本芸能実演家団体協議会(芸団協)
○番組:
 第一部 創作落語
    「『坊っちゃん』外伝」三遊亭圓窓
 第二部 日本舞踊
     「吾輩は猫である」花柳寿南海
 第三部 大喜利
    五明楼玉の輔・桂平治・三遊亭萬窓・三遊亭丈二・三遊亭遊雀
    司会=三遊亭圓窓
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大友浩さんのブログ_芸の不思議、人の不思議

 『坊ちゃん』が落語になり、『吾輩~』が日本舞踊になったようである。このメンバーでの大喜利も、さぞ楽しかっただろうなぁ。

 夏目漱石は、新暦では今日2月9日の生まれである。慶応3(1867)年旧暦1月5日の生まれ、大正5(1916)年の12月9日没。本名は夏目金之助。
 余談だが、日本の旧暦(正確には天保暦)は明治5年12月2日(新暦で1872年12月31日)まで使われて、その翌日の12月3日をもって明治6年(1873年)1月1日に改暦された。旧暦(太陰太陽暦)については堀井憲一郎さんの『落語の国からのぞいてみれば』(講談社現代新書)に詳しく説明されている。
堀井憲一郎_落語の国からのぞいてみれば
 
 さて、ご紹介したイベントでも物語るように、夏目漱石と落語の関係は深い。特に有名な『三四郎』で登場人物に語らせる名人三代目柳家小さん評は、ずいぶん多くの評論家や落語家に引用されている。
 少し筋書きを説明すると、三四郎が東大に入学し専攻課目以外の授業も含め週に四十時間も大学に通っていても物足らないと言うのを聞いた友人の佐々木与次郎が、「電車に乗って、東京を十五六返乗回しているうちに自ら物足りる様になるさ」と電車に乗せた後、日本橋の料理屋へ連れて行き晩飯を食べ酒を呑んだ後の記述である。

 次に本場の寄席へ連れて行ってやると云って、又細い横町へ這入って、木原店(きはらだな)と云う寄席へ上った。此処で小さんという落語家を聞いた。十時過通りへ出た与次郎は、又「どうだ」と聞いた。三四郎は物足りたとは答えなかった。然し満更物足りない心持もしなかった。すると与次郎は大に小さん論を始めた。小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。何時でも聞けると思うから安っぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである。今から少し前に生まれても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。


 夏目漱石の作品自体への落語の影響は、『吾輩は猫である』のほうがはるかに大きい。作品そのものが”落語的”と言ってもいいだろうし、あちこちに優れたパロディが見られる。
たとえば、強盗が入れられた翌朝、苦沙弥夫婦が盗まれた物を確認する会話は、まさに『「花色木綿(出来心)』のパロディである。

「帯までとって行ったのか、にくい奴だ。それじゃ帯から書き付けてやろう。帯はどんな帯だ」
「どんな帯って、そんなに何本もあるもんですか。黒繻子と縮緬の腹合の帯です」
「黒繻子と縮緬の腹合の帯一筋—価はいくら位だ」
「六円位でしょう」
「生意気に高い帯をしめてるな。今度から一円五十銭位のにしておけ」
(中 略)
「それから?」
「山の芋が一箱」
「山の芋まで持って行ったのか。煮て食うつもりか、とろろ汁にするつもりか」
「どうするつもりか知りません。泥棒の所へ行って聞いていらっしゃい」
「いくらするか」
「山の芋のねだんまで知りません」
「そんなら十二円五十銭位にしておこう」
「馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、いくら唐津から掘って来たって山の芋が十二円五十銭してたまるもんですか」


 なぜ、漱石の(初期の)小説に落語の香りがこんなに漂うか、ということについては矢野誠一さんの『文人たちの寄席』からヒントが得られる。
矢野誠一著『文人たちの寄席』(文春文庫)

 江戸の草分けと言われる名主の家に生まれた夏目金之助漱石は、子供時代を牛込馬場下で過ごすのだが、まだ十歳にみたぬ頃から日本橋瀬戸物町の伊勢本に講釈をききに出かけたという。娯楽の少なかった時代の名家に育った身にとっては、あたりまえのことだったのかもしれない。正則中学校、二松学舎、成立学舎をへて東京帝国大学英文科と、漱石の学生生活は一方で寄席通いの歴史でもあった。正岡子規との交遊が始まったのは、1889(明治22)年1月からだが、そのきっかけとなったのはふたりで交わした寄席談義だったとされている。


 晩年の作品は落語とは次第に無縁となっていったが(もちろん、それぞれ傑作であるが)、若かりし頃の漱石の作品には、落語ファンにはたまらない魅力がある。それは、寄席が大好きだった少年時代の思い出が大きく影響しているのだろう。
 漱石作品は『こころ』をきっかけに、中学から高校にかけて夢中に貪った懐かしい思い出がある。それは、その小説としての魅力はもちろんだが、敗戦を終戦と誤魔化され、昭和30年代以降の世界しか知らなかった世代にとって、その作品に広がる明治の東京が新鮮に、そして美しく思えたことが大きな理由でもある。団子坂の菊人形などのキーワードが今も思い出される。

 あらためて久しぶりに漱石を読み返してみよう、と思う記念日であった。

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by kogotokoubei | 2009-02-09 15:03 | 小説家と落語 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛