長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』より(15)
2026年 03月 05日
久しぶりのこの本。

長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)
長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の十五回目。
初版は松江今井書店から1988年刊行。
2014年に全面改稿新版が同書店から出され、2025年9月に出されたこの潮文庫版は、新版を一部加筆修正したもの。
著者は、1940年、新潟生まれ。新潟大学人文学部で史学を専攻し、コロンビア大学で修士取得。
一時期会社員、前後して高校教諭を勤めた方。
本書の他に、『わが東方見聞録ーイスタンブールから西安まで177日』(朝日新聞社、2008年)などがある。
<目次>
□小泉セツ関係系図
□1 セツの生い立ち
□2 松江士族の没落とセツ
□3 ハーンとの出会いと結婚
□4 結婚生活
□5 未亡人時代
□思ひ出の記
□あとがき
□文庫版あとがき
□解説 怪談文学創作の最大の功労者・小泉セツの人生 小泉凡
[巻末付録]
□セツ・ハーン略年譜
□セツの「英語覚え書帳」
巻頭の系図の写真。

引き続き「結婚生活」から、東京でのこと。
「ばけばけ」では、まだ熊本篇で、長男を身ごもったことが描かれている。
最終回までに、どこまで進むのだろうか。
さて、東京の八雲の家への訪問者について。
熊本で生まれた長男一雄は、その著書で、当時の八雲家の訪問者のことなどを書き残している。
セツの親戚たちが、東京での食事付き宿泊先と頼んで、牛込の家に来訪・逗留したのは、自然の勢いと言わなければならない。その中でも、松江での帰化に関わる戸籍手続きを任された高木苓太郎は、「士族の零落」を共にした後、『易経』の素養を生かして易者になっていた。彼は毎年、各地を遍歴しては、しばらく小泉家の人となり、一雄に懐かしい思い出の数々を残した。ハーンは、彼の寡黙・恬淡・誠実の人柄を愛して、『霊の日本』所収の「占いの話」に使い、松の下で吹雪をやり過ごす間に、立ったまま凍死するとしている。
この高木苓太郎という人物は、なかなかに興味深い。
セツの親戚であるが、系図には出ていない。
1897年1月頃、セツと離婚後に岡山で事業を興し成功していた最初の夫・前田為二と偶然再会し、その様子をセツと養父に手紙で伝えた人物である。
八雲の日本帰化の手続きで奔走した人物だが、その後、易者になるというなんとも不思議な人生。
常に髪も髭も伸び放題で、あちこちを放浪していて、家に帰ってくるのは年に一度くらいだが、占いがよく当たると評判の人物であった。
さて、東京の家には、あの人物もやって来た。
清の誕生から半年を経た七月、セツの実弟の藤三郎が姿を現す。セツは「絶交」していたにもかかわらず、渋々とーハーンには伏せてー書生部屋に寝起きさせた。小泉家本家の戸主とは名ばかりであったが、藤三郎はその処遇に忍び切れず、二十日ばかりしてハーンの前に打って出た。ところで、ハーンとセツは、東京に出る前の松江帰省の折、セツの実父(湊)の眠る小泉家の墓に詣でようとしたが、肝心の墓が見当たらない。善導寺の庫裏(くり)で聞けば、「あれは倅さんが売りなさいました」との話であった。
墓を売る、なんてことはそう滅多にあることではない。
父の墓を売った藤三郎に八雲は、どう言ったのか。
藤三郎に向かったハーンは、「あなた武士(さむらい)の子です。先祖の墓食べるの鬼になりますよりは、何故墓の前で腹切りしませんでしたか?」と、顔面を蒼白にして怒った。藤三郎は、その日のうちに発って、再び顔を見せなかった。彼はその十六年後(1916)、戸籍の住所から遠からぬ空家で死んでいるのを、管理人が見付けて届け出ている。四十五歳であった。
八雲の怒りは、相当のものだったようだ。
「ばけばけ」で、三之丞の最期が語られるかどうかは分からない。
それほどに悪くは描かないようにも思う。
系図の一部を拡大。

藤三郎の四歳上の次兄武松が19歳で亡くなり、小泉家の次期当主だった長兄の氏太郎も町家の娘と駆け落ちをして行方知れずになったため、予想もしなかった小泉家の当主となった藤三郎。
褒められる人生とは言えないだろうが、小泉藤三郎も、維新による士族の没落の被害者の一人だったと言えるだろう。
