人気ブログランキング | 話題のタグを見る

長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』より(13)


長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』より(13)_e0337777_16061654.jpg

長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)

 長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の十三回目。

 初版は松江今井書店から1988年刊行。
 2014年に全面改稿新版が同書店から出され、2025年9月に出されたこの潮文庫版は、新版を一部加筆修正したもの。

 著者は、1940年、新潟生まれ。新潟大学人文学部で史学を専攻し、コロンビア大学で修士取得。
 一時期会社員、前後して高校教諭を勤めた方。
 本書の他に、『わが東方見聞録ーイスタンブールから西安まで177日』(朝日新聞社、2008年)などがある。

<目次>

□小泉セツ関係系図
□1 セツの生い立ち
□2 松江士族の没落とセツ
□3 ハーンとの出会いと結婚
□4 結婚生活
□5 未亡人時代
□思ひ出の記
□あとがき
□文庫版あとがき
□解説 怪談文学創作の最大の功労者・小泉セツの人生 小泉凡
[巻末付録]
□セツ・ハーン略年譜
□セツの「英語覚え書帳」

 巻頭の系図の写真。

長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』より(13)_e0337777_16382060.jpg



 「ばけばけ」は、ようやく熊本篇が始まりそうだが、こっちは、東京篇になる。

 「結婚生活」の「東京牛込時代」から。

 巌の誕生とおろく

 二人で東京に出てから二週間して、養父母と二人の女中(お米・お梅)が一雄を連れて上京し、六日を経て市ヶ谷富久町(牛込区)の借家に移り住んだ。そこは、自證院円融寺(じしょういんえんゆうじ、瘤寺)の鬱蒼たる山林と地続きで、静寂と樹陰の散歩道に大喜びのハーンは、二階の書斎から出てはその幽寂な世界に浸って、在住は五年半に及んだ。
 お梅の身の上話(「人形の墓」)は、二ケ月後に脱稿し、翌年刊行の『仏の畑の落穂』に収められるが、二十日近く宿泊した龍岡楼(たつおかろう)の女中おろくが、静岡県士族の出で東京高等師範商船学校に通う書生の新美資雄(よりお)とともに、家族に加わった。そして、年を越しての明治三十年(1897)二月十五日に次男の巌(いわお)が生まれた。

 「天台宗東京教区」というサイトに、「鎮護山圓融寺 自證院(自証院)」が紹介されていて、次のように記されている。
「天台宗東京教区」サイトの該当ページ
○文豪、小泉八雲とのゆかり
小泉八雲(Lafecadio Hearn)は明治29年9月東京大学で教鞭をとる為、松江より上京して西大久保に移るまで、5年余り、当自證院の門前に邸を持ち、日々、老杉の生い茂った当院の墓地を逍遥することを楽しみとし、また当時の住職とも心安く、仏教にも深い造詣を有していました。八雲の葬儀は明治37年、当院において営まれ、遺骨は、雑司ケ谷墓地に葬られています。
法名 正覚院浄華八雲居士

 ということで、八雲の葬儀が営まれたお寺でもある。


 おろくが女中をしていた龍岡楼について。
 文京区のサイトに「小泉八雲」というページがあり、次のように記されている。
文京区サイトの該当ページ

明治29年8月*本郷龍岡町24番地(現・湯島4-8-6)龍岡楼

 富久町の家に入る前に泊まっていた旅館。

 その龍岡楼の女中だった、おろくのこと。

 働き者で正直者、その上に福々しい顔と朗らかな性格を持ったおろくは、家中を明るくした。ハーンが「スウィート」と言って子供の手にキスをする。彼女はこれを「スイテ(吸手)」と呼んで、家中に流行らせた。一雄が、教えられた英語の子守歌を歌う。

 Bye,baby bunting, Daddy's gone a hunting,
 To get a little hare's skin, To wrap a baby banting in.

 おろくは、これを

 ババ、ベベ、半纏(はんてん)、 達巻(だてまき)や半平(はんぺん)、
 黄揚櫛(つげぐし)や平気、 面(つら)パンと打(ぶ)っちまえ。
                      (小泉一雄『父「八雲」を憶ふ』)

 少々乱暴な挙句のためだろう。これは大うけが過ぎて、ハーンの御法度となる。

 おろくの人柄が、うかがえる。

 なるほど、家中が明るくなったはずだ。

 やがてセツが歌舞伎通いをするようになると、東京育ちで芝居好きのおろくがお供役を務め、嫁いでからもよく遊びに来たという。

 八雲は、セツの家族以外にも、さまざまな日本人と接し、著作にも生かされていた。

 そして、さまざまな土地を訪ね作品としても発表されている。

 その中の一つが、焼津である。

 彼は子供の頃、夏をアイルランド南部の海岸で過ごし、海を愛した。

 東京に出た次の年の夏、セツを一雄を連れてーそれに金十郎とお米をも伴ってー舞阪(まいさか、現在の浜松市内)と浜松の海を検分し焼津に至るー松江帰省の折に親しくなった英語教師の田村豊久が、案内役を務めた。焼津の宿は、魚屋を営む山口乙吉(おときち)の二階だったが、ハーンは乙吉の類なき正直と誠実に感服して「乙吉様(サーマ)」と呼び、以降二夏を除いていつも夏休みをここで過ごす。セツは、魚の悪臭と夏の西日が差す二階部屋の暑さ、それに夜の蚤に耐えられず、夫と子の世話を乙吉と妻のテツに委ねて、夏が終わる頃迎えに来ることになった。

 八雲は松江の寒さを「地獄」と嘆いたが、セツは焼津の魚屋の環境が「地獄」だったようだ。

 
 衆院選大勝の結果、高市自民の暴走が、国民を地獄に導かないよう監視しなくてはならない。


 次回は、八雲の東京での仕事のことなどに進む予定。


名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by kogotokoubei | 2026-02-12 12:57 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31