長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』より(10)
2026年 01月 29日

長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)
長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の十回目。
初版は松江今井書店から1988年刊行。
2014年に全面改稿新版が同書店から出され、2025年9月に出されたこの潮文庫版は、新版を一部加筆修正したもの。
著者は、1940年、新潟生まれ。新潟大学人文学部で史学を専攻し、コロンビア大学で修士取得。
一時期会社員、前後して高校教諭を勤めた方。
本書の他に、『わが東方見聞録ーイスタンブールから西安まで177日』(朝日新聞社、2008年)などがある。
<目次>
□小泉セツ関係系図
□1 セツの生い立ち
□2 松江士族の没落とセツ
□3 ハーンとの出会いと結婚
□4 結婚生活
□5 未亡人時代
□思ひ出の記
□あとがき
□文庫版あとがき
□解説 怪談文学創作の最大の功労者・小泉セツの人生 小泉凡
[巻末付録]
□セツ・ハーン略年譜
□セツの「英語覚え書帳」
巻頭の系図の写真。

引き続き「結婚生活」から、熊本時代のこと。
熊本では、八雲がセツに英語を教えたり、いわゆる「ヘルンさん言葉」で夫婦が会話していたこと、また、長男一雄が生まれ、同居しているセツの養母トミが一雄を背負って金毘羅様の長い階段を裸足で上がったりしたことを紹介した。
夫婦関係や家庭生活の成熟をよそに、近代化が進み、昔ながらの世界が失われつつあった熊本は、ハーンを苛立たせていた。金毘羅参りを報告した西田宛の手紙は、「熊本が日本であるとは全然思われない。熊本は大嫌いだ」で結ばれている。
ハーンの熊本への嫌悪はすぐにも、学校の同僚たちとの感情的な軋轢に発展する。東京・横浜での夏休みを挟んで、それは、感じやすく激しやすいハーンの側で、極限に達した。十月上旬、熊本での生活は破綻を来たし、一家を引き連れ、逃げるようにして神戸に移る。
明治二十七年(1894)10月のことだった。
なぜ神戸かと言うと、神戸クロニクルの論説記者として迎えられたからだ。
熊本を離れた理由は、近代化を急ぐ土地であり、古(いにしえ)良き日本の面影のある松江と、あまりに対照的であったことや、五高の同僚との不仲にあったと思われる。
同僚の一人、もと会津藩の家老で漢学の教師秋月胤永(かずひさ、悌次郎)は、白髭を垂れた愉快そうな老人で、八雲は著書で「神」と記しているが、同僚の中には、いろんな人がいたのだろう。
三年の熊本生活が終った。
残念ながら、松江時代に感じた日本への思いとは大きく違う心境で、次の旅に向った。
しばらくは、熊本で受けた心の打撃が日本人全般の不信にまで広がり、西田への手紙にさえ、「日本人を理解できると信ずる外国人は、何と愚かであろう!」と書くほどであった。
神戸到着の少し前に『知られぬ日本の面影』が出版された。
これは大好評となり、年末までの三ヶ月で三刷を重ねた。
八雲は、世界的な名声を得ることになった。
年が明けて三月には『東の国から』が出版され、その翌明治二十九年(1896)年三月、名作と評価が高い『心』が出版された。
『心』の中で最もよく読まれる「門づけ」は、三味線を抱え、子供に手を引かせて俗謡を歌い歩く盲目の女を語った作品。眼病が快癒してほど遠からぬ時の体験で、招じ入れた家は、神戸での第一の住居(下山手通り四丁目)であった。
盲目の女性の門づけ、となると、瞽女を思い浮かべる。
チェンバレンへの手紙から。
私は先日衝撃的な経験をしました。・・・・・・まるで日本が言い表わせないほど忌まわしく、この世界全体が生きるに価しないと感じれられていた時です。二人の女が家に俗謡を売りに来て、そのうちの一人が三味線をとり、歌いました。・・・・・・私は生涯にこんなにも美しいものを聞いたことがありません。その声には、人生のあらゆる悲哀と美、一切の苦しみと甘美さが高鳴り、うち震えていました。そして、日本と日本的な事物に対する、昔懐かしい初めの頃の愛が立ち返って来て、その場が霊に憑かれたかのように、大きな優しい愛によって満たされました。
八雲は、神戸という開港場で見る西洋文明には嫌悪感を抱いていた。
しかし、この「昔ながらの日本」、「大いなる庶民」による芸が、彼の心を打ち、あらためて、日本という国への深い愛が復活し、それは、日本国籍の取得という行為にもつながっていった。
次回は、その日本国籍取得への八雲の思いや、その経緯などについて。
