田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)より(23)
2026年 01月 17日

田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)
田部隆次著『小泉八雲』(副題「ラフカディオ・ヘルン」)の二十三回目。
初版は1980年に北星堂書店から刊行され、今年3月に中公文庫で再刊。
とはいえ、本書の「序」で著者は、この伝記の第一版は、大正三年四月、早大出版部から出た、と記している。
<目次>
□序
□故小泉八雲の著作につきて 坪内逍遥 ※「つきて」は原文のママ
□序 西田幾多郎
□小泉八雲先生を懐ふ 内ケ崎作三郎
□1 ギリシャからアイルランドへ
□2 大叔母のてもと
□3 学校生活
□4 シンシナティ
□5 ニューオーリンズ
□6 西印度、フィラデルフィア、ニューヨーク
□7 横浜から松江
□8 熊本
□9 神戸
□10 東京 その一
□11 東京 その二
□12 思い出の記 小泉節子(セツ)
□13 交際と交友
□14 人、思想、芸術
□15 ヘルンの通った道
□16 著書について
□17 余禄
□18 年譜(生涯、著作遺稿等)
□小泉八雲ー名の無き庶民の心を語り継ぐ 池田雅之
□索引
引き続き、「横浜から松江へ」から。
前回ご紹介したように、明治二十四年四月四日、桜が咲き始めた頃、八雲は横浜に着いた。
着いたその日に、風景、人々のふるまい、自然との融和などを肌で感じ取り、彼は日本で永住するつもりになった。
そして、特派員とはいえ、滞在費などの支援はなく、原稿料も安かったハーパー社との契約について不満が募り、加えて同行した挿絵画家ウェルドンよりも条件が悪いことを知って、ハーパーに絶縁状を送った。
まだ、日本での就職のメドなどないつかないのに、である。
ヘルンはもはや関係したくないと言って『ユーマ』『チタ』その他の契約書までも送り返した。ハーパー書肆とウェルドンから弁明の手紙を送ったが、ヘルンはそれに耳をかさなかった。その後ハーパー書肆から書物の印税、稿料を送って来た時、ヘルンは頑として受取ろうとしなかった。ハーパー書肆は横浜の米国領事に依頼して友人マクドナルドを通じて送ろうとした。マクドナルドはそれで「グランド・ホテル」の株をヘルンの名義で買って置いておもむろに説いた。怒った相手から受取るべき金を受取らないのは鳩に豆鉄砲を打つような物で無効だと言った。むしろなるべく多く取るように工夫すべきだと言った。そしてヘルンにそれを受取るようにさせた。しかしヘルンのハーパー書肆に対する不快の感は長く残ったらしい。私が明治三十六年にヘルンを訪問して談たまたまアメリカの出版書肆に及んだ時も、ヘルンはハーパー書肆に対する不快をもらした。
ニューオーリンズの『タイムズ・デモクラット』時代、文学部長として、週三十ドル(月約百二十ドル)を得ていた生活と比べると、その後の三年間の原稿生活は年平均五百ドルにしかならなかった。
西印度諸島での原稿にしても、また日本の滞在記にしても、あくまで原稿が『ハーパーズ・マンスリー』に掲載されてからの出来高での支払いという契約。
たしかに、決して良い条件とは言えなかった。
早く日本に行きたかったとはいえ、ハーパー有利な契約内容に注文をつけることなく船に乗った自分の過失でもあるののだが、よほど、腹に据えかねたのだろう。
そして、その後。
ハーパー書肆と絶縁してから、日本での求職を続けるべきか、帰国すべきかについて暫く思い惑った事はビスランド女史への手紙にも明らかである。
たまたまビスランド女史に紹介されたマクドナルド、日本で交際を求めたチェンバレン、以前ニューオーリンズ博覧会の事務官、当時文部省普通学務局長服部一三の斡旋で出雲松江の中学校の英語教師(月俸百円)となって赴任する事になったのは日本国にとって、又、ヘルンにとって不思議な因縁と言わねばならない。
八雲が『ハーパーズ・マンスリー』の美術主任のパットンとニューオーリンズ時代から手紙のやりとりをしていて、ニューヨークで遭い、彼からチェンバレンの書を貸してもらったことはすでに紹介した通り。
八雲のパットン宛の手紙を再度確認。
パットン様
いろいろ珍しい貴重な書物を貸して下さった事に対する御親切は言葉では述べつくされません。皆私に新しい物で、それを見るだけでも非常な楽しみです。チェンバレン氏の『古事記』の訳は特別に面白い物でした。ーそれから日本の神話や国語に関するアイヌの影響と言う人種学上の研究も。
八雲が日本への興味を募らせたには、多分にチェンバレンの『古事記』や日本の神話に関する著作の影響が強いと言われている。
チェンバレンと八雲との間での書簡も多数残っている。
なお、松江の後、熊本への赴任はチェンバレンの斡旋。
日本の神話、そして怪談などにも強い興味があった八雲にとって、神代以来有名な出雲、そして、交通不便で古い日本を知るに相応しい土地への赴任は、願ってもないことだった。
横浜のある寺院で偶然知合となった真鍋晃(まなべあきら)という書生を通弁兼道案内として横浜を発し岡山に着き、津山を経て鳥取街道に出て下市に達し、ここで初めて盆踊を見た。
八雲が下市で見たのは、「中山いさい踊り」。
「鳥取伝統芸能アーカイブス」に、この踊りと八雲のことを紹介しているので、踊りの写真を含めて引用。
「鳥取伝統芸能アーカイブス」サイトの該当ページ
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を魅了したふしぎな踊り優雅に踊る「いさい踊り」
[ ジャンル:舞踊・盆踊り ]
芸能の由来・沿革
祖霊の供養・社交場・娯楽性としての盆踊りである。
元中山町では古くから踊り継がれており、「いつ・どこ・だれ」が創作したかは不明だが、以西郷か古布庄(共に現琴浦町)と考えるのが至当かもしれない。
明治22年、悟正院(元中山町栄田)の江原邦治(明治31年~昭和59年)氏が祖母(弘化元年~昭和13年)から「観音堂での踊りのこと、太鼓の皮の張り替えのことを聞いておられる。また翌年明治23年7月、松江中学赴任の途中、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が下市集落の牧野旅館に宿泊。その夜、近くの妙元寺で踊られていた盆踊りを見物。踊りの状況を「知られぬ日本の面影」として記述。文豪・坪内逍遥も文体を絶賛。さらにいさい踊り歌は7・7・7・5調。この詩形は近世(日本歴史大辞典)というから江戸時である。この三つのことからみて、「いさい踊り」は少なくとも江戸時代後半には踊られていただろうと推察できる。
同サイトには、踊りの動画もあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。
また、「鳥取大山観光ガイド」サイトの「小泉八雲・ハーンの道コース(中山エリア)」で、踊りのことを次のように説明している。
「鳥取大山観光ガイド」サイトの該当ページ
いさい(以西)踊り
「いさい踊り」は、すり足に近い足運びで前後左右に動き、またゆっくりとした手の動きと、ゆらりゆらりと揺れる調子で続けられる踊りです。
八雲が、この踊りの幽玄さ、人々の優しさなどに心を打たれたことは、セツの「思い出の記」でも紹介されている。
さて、盆踊りを見た後のこと。
伯耆(ほうき)米子から小蒸気船で中海を横断し、大橋川の水道に入り、大橋河岸に上陸したのは八月末であった。九月二日に登校した。師範学校にも少し受持時間があった。
明治二十三年前後には多くの中学には英米の雇教師がいた。松江の中学ではヘルンは第二回の外人教師であった。この頃日本全国はまだ欧米崇拝熱の去らない時代であった。極端なる欧化熱の時代いわゆる「鹿鳴館」時代を去る事遠くなかった。コルクが落ち込んだ洋酒の空瓶一本をうやうやしく奉書紙に包んだのが貴重な贈答品であったという明治の初年が、精神的に復興したような時代であった。
ということで、松江に到着。
しばらく本書を休んで、別な本からご紹介する予定。

