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田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)より(22)


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田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)
 
 田部隆次著『小泉八雲』(副題「ラフカディオ・ヘルン」)の二十二回目。

 初版は1980年に北星堂書店から刊行され、今年3月に中公文庫で再刊。
 とはいえ、本書の「序」で著者は、この伝記の第一版は、大正三年四月、早大出版部から出た、と記している。

<目次>
□序
□故小泉八雲の著作につきて  坪内逍遥 ※「つきて」は原文のママ
□序  西田幾多郎
□小泉八雲先生を懐ふ  内ケ崎作三郎
□1 ギリシャからアイルランドへ
□2 大叔母のてもと
□3 学校生活
□4 シンシナティ
□5 ニューオーリンズ
□6 西印度、フィラデルフィア、ニューヨーク
□7 横浜から松江
□8 熊本
□9 神戸
□10 東京 その一
□11 東京 その二
□12 思い出の記  小泉節子(セツ)
□13 交際と交友
□14 人、思想、芸術
□15 ヘルンの通った道
□16 著書について
□17 余禄
□18 年譜(生涯、著作遺稿等)
□小泉八雲ー名の無き庶民の心を語り継ぐ  池田雅之
□索引

 さて、「横浜から松江へ」に進む。

 前回ご紹介したが、1890年3月8日、八雲はニューヨークを発った。途中で画家ウェルドンと一緒になった。

 これは、本書に掲載されている、ウェルドンが描いたニューヨークを旅立つ八雲の姿。

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 挿絵画家C・D・ウェルドンは、船で偶然八雲に出会ったわけではなく、ハーパー社から八雲同様特派員として派遣されていた。

 1890年4月4日、ついに日本に到着。

 ヴァンクーヴァ―から横浜まで十三海里(約二十四キロ)の速力で十七日を要した。陰気な天気の続いたあとで横浜へ着いた時は快晴であった。富士山と白い四角な帆をあげた多くの船を見ながら入港した。多くの外人客と共に船の名の「丸」を見て訝った。海鷗(かもめ)が手をのばして捕える事ができる程多いのを見て、パンの屑を投げ与えた。これは欧州の河や湖水の白鳥のように法律で保護してあるのだろうと考えて、動物愛護心の盛んなヘルンは喜んだ。これ等の光景に感激したヘルンは「自分はここで死にたい」と言ったのに対して、ウェルドンは「自分はそうは思わない。自分はここで生きていたい」と言ったと伝えられている。

 二人の表現の違いが、なかなかに哲学的と言えるのではなかろうか。

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池田雅之著『小泉八雲』(平凡社新書)


 池田雅之著『小泉八雲ー今、日本人に伝えたいこと』から以前ご紹介したが、彼は日本の第一印象を書き残している。
 あらためて同書から。
2025年9月1日のブログ

 桜がほころび始めた春、空は晴れ上がり、無数の鴎が船の周りを飛び交い、遠くには美しい富士山が見えたといわれています。八雲は初めて見た日本の印象を「日本への冬の旅」のなかで次のように描いています。

   ・・・・・・改めて港の光景を眺めると、その美しさは想像を絶する 
   ものがある。光の柔らかさといい、遠方まで澄み切った感じといい、
   すべてを浸している青みがかった色調の細やかさといい(中略)すべ
   てが透明だが、強烈なものは何もない。
   ーすべてが心地よく見慣れぬものではあるが、強引なものは何もない。
   これは夢の持つ鮮やかさ、柔らかさというものだ!

 この文章から、八雲は横浜に上陸してすぐ、まさに日本との決定的な出会いを果たしたことが伝わってきます。また同時に、親しい友人に宛て、「ここは、私の霊がすでに一千年もいる所のような気がします」と、のちに日本が終(つい)の住処(すみか)になる八雲の運命を暗示するかのような手紙も書き送っています。
 
 「ここを終の住処とする」と決意した八雲は、着いたその日にビスランド女史から貰った紹介状を持ってマクドナルドをグランド・ホテルに訪ねて食事を共にした。

 エリザベス・ビズランドは、ニューオーリンズの『タイムズ・デモクラット』で八雲と知り合った後、ニューヨークに移っていた。
 現地の『コスモポリタン』誌に職を得てすぐ、1989年11月、『ニューヨーク・ワールド』誌に対抗する世界一周競争に担ぎ出され、その途中で日本に立寄ってアメリカ海軍のミッチェル・マクドナルドと会っていた。

 八雲が日本に出発する前のニューヨーク訪問で、転居先にビズランドを訪ねたことは前の記事でご紹介した通り。

 その際に、マクドナルドへの紹介状を受けとっていたのだろう。

 本書に戻って、引用。

 ここでチェンバレンへの紹介状を得てただちに手紙を送った。もうすでに西印度とは比べ物にならないこの複雑な国の研究は永く落着いてからでなければできない事を考えたヘルンは、この手紙のうちにも求職を依頼している。
 ウェルドンとは別々の行動を取って時々会う事に二人で相談した。「日本への冬の旅」と題してハーパーへ送ったモントリオールから横浜までの紀行はその年の十一月の『ハーパーズ・マンスリー』に出た。ハーパーはこれに対して百五十ドルを送った。
 それからヘルンは横浜の寺院や神社を訪い、江の島、鎌倉にも遊び、東京にも行った。東京では新橋の車夫に引き込まれて、本郷の赤門前の三好屋という宿屋に泊った。その後明治二十九年大学に赴任した時偶然泊ったのが又この三好屋であった。

 前の記事で、ハーパーの特派員としての原稿料は八雲の意に沿う額ではなかったが、それよりもいち早く日本に行きたいがために承諾していたとご紹介した。

 雨のためにとじこめられた日などには、つくづく来し方を顧みた。そこでハーパーとの絶縁という意外な事件が起った。新聞記者生活を止めてニューオーリンズを去って原稿生活を始めてから約三年間の収入一年平均五百ドルにしかならなかった。ニューオーリンズ時代の多少の貯蓄も消費して少しの負債もあった。西印度へ行った時もハーパーはただそこでできた原稿を買ってくれただけで、旅費滞在費一切自弁であった。その原稿も一度拒絶された事があった。今度の旅行の条件もよく考えると不利な事ばかりであった。旅費と手当はカナダ太平洋鉄道汽船会社のそろばん勘定の好意から贈られたので、ハーパーとは直接の関係はなかった。ハーパーの要求した記事の題目と条件は皆ヘルンの気に入らなかった。特派員という物はこんな物ではなかろうと思った。自分のような侮辱的待遇を受ける特派員はないと思った。

 ウェルドンとハーパーとの条件が自分より良いことを知ったことも、八雲がハーパーとの関係を絶つ決断につながったようだ。

 ついに、八雲はハーパーに絶縁状を送った。

 まだ、日本での仕事が見つかる前のことだ。

 さて、その後どうなるのか、は次回。

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by kogotokoubei | 2026-01-14 12:57 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛
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