田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)より(21)
2026年 01月 11日
今日は参加可能人数三人、ということで日曜恒例のテニスは休み。
ブログを書いてから、映画を観に行くことにした。

田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)
田部隆次著『小泉八雲』(副題「ラフカディオ・ヘルン」)の二十一回目。
初版は1980年に北星堂書店から刊行され、今年3月に中公文庫で再刊。
とはいえ、本書の「序」で著者は、この伝記の第一版は、大正三年四月、早大出版部から出た、と記している。
<目次>
□序
□故小泉八雲の著作につきて 坪内逍遥 ※「つきて」は原文のママ
□序 西田幾多郎
□小泉八雲先生を懐ふ 内ケ崎作三郎
□1 ギリシャからアイルランドへ
□2 大叔母のてもと
□3 学校生活
□4 シンシナティ
□5 ニューオーリンズ
□6 西印度、フィラデルフィア、ニューヨーク
□7 横浜から松江
□8 熊本
□9 神戸
□10 東京 その一
□11 東京 その二
□12 思い出の記 小泉節子(セツ)
□13 交際と交友
□14 人、思想、芸術
□15 ヘルンの通った道
□16 著書について
□17 余禄
□18 年譜(生涯、著作遺稿等)
□小泉八雲ー名の無き庶民の心を語り継ぐ 池田雅之
□索引
引き続き、「西印度、フィラデルフィア、ニューヨーク」から。
寒いニューヨークを離れ、南の島、西印度諸島へ旅をした八雲。
以前ご紹介したが、Wikipedia「マルティニーク」から、地図を拝借。
Wikipedia「マルティニーク」

コロンブスが「世界で最も美しい場所」と称賛したマルティニーク島。
島名の語源は、島に住んでいたカリブ人の言葉で「マディニーナ(花の島)」、または「マティニーノ(女の島)」である。
八雲は、最初の短い滞在の後、すぐにマルティニークに引き返し、のべ約二年間を過ごした。
では、この島での生活のことを、少しご紹介しておこう。
1887年10月2日、ヘルンをのせた汽船「バラクータ」は東河(イーストリバー)の波止場49号を離れてマルティニーク島サン・ピエール島に向った。
サン・ピエールは二百尺以上の棕櫚椰子の繁茂せるところであった。アラビア物語にありそうな多くの人種のいるところであった。すべて自然がその真盛りな偉大な力と色と光を示しているところであった。ここに上陸したヘルンは疲れた人の重荷を下ろしたような気分で、再び熱帯生活の安楽な習慣に帰った。ヘルンの部屋づきの老婢シリリアは一杯の珈琲と一皿の果物を運びながら、毎朝五時に彼を起こした。それからヘルンは大きな椰子の木の繁った海岸から出て遊泳した。一時間の後帰って昼飯まで書き続けた。どうしても筆の進まない時はニューヨークで買って来た写真機を携えながら散歩して「荷運び女」や「洗濯女」と話したりした。甚だしい近眼であるので写真は余り成功しなかったようである。昼飯は野菜と果物と魚であった。午後は暑熱のために何もしないのがこの地方の習慣であった。七時に晩飯、九時に床についた。時々島巡りの旅行もした。友人とブレー山へ登った事もあった。
ヘルンがここで得た友人のうちに、公証人のレオポルド・アルヌーがあった。この人は『天の河縁起』のうちの「小説よりも奇」に出ている人物、それからヘルンが『仏領西印度の二年間』を捧げた人であった。
Wikipedia「サン・ピエール(マルティニーク)」から、サン・ピエールとブレー山の写真を拝借。
Wikipedia「サン・ピエール(マルティニーク)」

リゾート地、という印象。
ヘルンは、あまり多くの現金を持たないでマルティニークにやって来た。
そのため、このアルヌーから、経済的な支援を得ていた。
ヘルンはここで1848年の反乱中の挿話を聞いた。それは『ユーマ』の話であった。若い黒人の女ユーマは白人の子守であった。反乱中に、その主人の子供のために自分の恋人も自分自身をも捨てて、焼打の火焔に包まれた時足もとまで捧げられた梯子をも顧みないで主人の子供の難に殉じたのであった。ヘルンはあまりに感動して書いてので、この話はほとんど自然に三ヶ月でできた。
『仏領西印度の二年間』には前後の紀行とマルティニークの記事がある。童謡も、お伽噺も、大きなむかでの話も、ヘルンに忠実に仕えた老婢シリリアの美わしい話もある。帰路船中で手にした墨絵で竹を描いた日本製の団扇を賞嘆した記事もある。ビスランド女史はこの『仏領西印度の二年間』と『日本』とをヘルンの二大傑作と称している。
熱帯の地は、執筆活動の場でもあったが、翻訳や執筆などで疲れた心身を休める場所でもあったようだ。
そして、八雲には、新たな土地への放浪の思いが募っていた。
ニューオーリンズで世話になったコートニー夫人への手紙から。
書いた場所は、フィラデルフィアの眼科医グールドが提供してくれた部屋だ。
私はマルティニークで受難祭(グッド・フライディ)を二度過しました。あなたがその日に肉を食べる事を好まないからというわけであなたのうちへ来る人々は肉を止めたのは感心でしたが、マルティニークであったら一万ドル出してのその日に肉の1グレーンだって得られません。そこの人々は受難祭に肉を食べると一生運が悪いと考えています。受難祭に肉という言葉を口に出しても、叫び出す程ここの人々には罪悪に見えるのです。・・・・・・これを聞いてあなたはきっと喜ぶでしょう。そして要するにマルティニークの人々は悪い人間でないと思うでしょう。
私がもっとたびたび手紙を書かなかったというわけで、あなたは私を甚だいけないと思っているでしょう。実はいろいろ困る事があって誰にも余り手紙を出しませんでした、ー余りの暑熱で一日のうちに書く事のできる時間は少ししかありません。それからこんな国では手紙を書く事が毎日だんだんもの憂くなります。
(中略)
私はまだ熱帯地方の事を考えています。しかしマルティニークの私の友人達でも一年たたないうちは西印度のどの場所への帰って来ない方がよいと忠告しますから、-私は多分どこか外へ、-恐らく世界の向う側へ行くでしょう。
世界の向う側とは、日本のことだった。
しかし、この旅のためには、経済的な問題を解決する必要があった。
八雲は、最初の短いマルティニークの旅の後、いったんニューヨークへ戻った際、『ハーパーズ・マンスリー』の主筆オールデンを訪ねている。
オールデンに勧められニュージャージーの彼の家に数日滞在もした。
オールデンは、八雲が西印度諸島を再訪することに賛成し、滞在記を送るよう八雲に依頼していた。
そして、日本に関しても、オールデンに滞在記などを送るから雑誌に掲載の上、稿料を送って欲しいと依頼していたのだった。
オールデンが八雲に送った手紙では、「『ハーパーズ・マンスリー』に掲載の分の原稿は千語について二十ドル、それ以外のハーパーの雑誌の分は千語につき十五ドル」という稿料が提示された。
八雲は、あまり良い条件とは思わなかったものの、承諾する旨の手紙を送った。
ともかく、一日も早く、東洋の神秘的な島を訪れたかったのである。
1890年3月8日、八雲はニューヨークを発った。途中で画家ウェルドンと一緒になった。
これは、本書に掲載されている、ウェルドンが描いたニューヨークを旅立つ八雲の姿。

次回は、横浜到着後のことなど。
とはいえ、その前に『八雲の妻』の記事が先になる予定。
