田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)より(20)
2026年 01月 10日

田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)
田部隆次著『小泉八雲』(副題「ラフカディオ・ヘルン」)の二十回目。
初版は1980年に北星堂書店から刊行され、今年3月に中公文庫で再刊。
とはいえ、本書の「序」で著者は、この伝記の第一版は、大正三年四月、早大出版部から出た、と記している。
<目次>
□序
□故小泉八雲の著作につきて 坪内逍遥 ※「つきて」は原文のママ
□序 西田幾多郎
□小泉八雲先生を懐ふ 内ケ崎作三郎
□1 ギリシャからアイルランドへ
□2 大叔母のてもと
□3 学校生活
□4 シンシナティ
□5 ニューオーリンズ
□6 西印度、フィラデルフィア、ニューヨーク
□7 横浜から松江
□8 熊本
□9 神戸
□10 東京 その一
□11 東京 その二
□12 思い出の記 小泉節子(セツ)
□13 交際と交友
□14 人、思想、芸術
□15 ヘルンの通った道
□16 著書について
□17 余禄
□18 年譜(生涯、著作遺稿等)
□小泉八雲ー名の無き庶民の心を語り継ぐ 池田雅之
□索引
今回は「西印度、フィラデルフィア、ニューヨーク」に進む。
1887年6月、十年住んだニューオーリンズを離れた八雲だが、まだ、日本には来ていない。
ニューオーリンズを出発し途中シンシナティに立寄って、半日をロングワース町26の老友ワトキンの印刷所で楽しく送った。これが二人の永訣であった。その日の夕方、シンシナティを出発してニューヨークの西五十七丁目四三八のクレイビールのアパートに着いた。クレイビールは当時『ニューヨーク・トリビューン』の記者であった。
以前ご紹介したように、印刷所を営むワトキンは、シンシナティで八雲の恩人であった。
クレイビールもシンシナティ時代の友人で、後年、音楽評論家として有名になる。
ニューオーリンズで三食お世話になったコートニー夫人に手紙を出している。
高層ビルに驚いたこと、人口が多いことなどとともに、次のように記している。
ここはニューオーリンズよりもずっと寒くて、空気は全く違います。空はそれ程青くなくて遠いようです。色もはっきりしません。地平線は霞んでいるようです。冬はきっと非常に寒いでしょう。
八雲にとって、ニューヨークは、長居する地ではなかったということが、この文からも理解できる。
クレイビールは結婚していて娘もいた。
八雲はホテルに泊まると言ったが、クレイビールはそのアパートに泊めさせ、十年間の積もる話をした。
それから数日の間ヘルンはニューヨークの雑沓に気おくれしながらシンシナティ時代の友人テュニソンを訪問した。つぎにようやくの事でビスランド女史のアパートを訪問すると、引っ越したあとであった。新しい寓居を尋ねて今度は遭うことができた。遊泳のためにコニー・アイランドに行って見たが、メキシコ湾の温い水に慣れた彼には北大西洋の水は北氷洋のように思われた。クレイビールとハドスン河の上流の方へ遠足もした。
七月の上旬、ヘルンはトリニダッドに向って汽船「バラクーダ」でニューヨークを出発した。この旅行中マルティニークのサン・ピエールからクレイビールに歌を入れた手紙を送ったが、クレイビールの小さい娘には島の服装をした立派な人形を贈った。
この時の西印度諸島の旅は三ヵ月ほどで、いったんニューヨークに戻る。
そして、1887年10月には、また南の島に向っている。
それから、延べにして約二年間滞在し、1889年5月1日、サン・ピエールを旅立った。
ヘルンのさしあたりの仕事は『ハーパーズ・マンスリー』に出した小説『チタ』を単行本にして出版するための校正と、サン・ピエールで書いた小説『ユーマ』の出版準備と、『仏領西印度の二年間』を完成する事とであった。ということで、ニューヨークより落ち着いた環境で、八雲は『チタ』の校正などの仕事に従事した。
これよりさきニューヨークは余りに騒々しくて仕事ができないと思ったヘルンは、フィラデルフィアにある未見の友眼科医グールドに依頼して、フィラデルフィアに閑静な一室を得たいと頼んだ。ヘルンの多くの友人のようにこの人もヘルンが『タイムズ・デモクラット』に連載した翻訳に対する賞賛の手紙を送って友人となったのであった。グールドはその住宅の一室を提供してヘルンを招待した。
そして、その年の10月には、またニューヨークに赴いた。
ヘルンが弟ジェイムズに手紙を送ったのは、この頃だった。
弟は、アイルランドの叔母婿ステュアートの経営していた学校に十六までいたが、その後渡米していた。
そして、その頃には、シンシナティと同じオハイオ州ギブスンバーグで農業をしていた。
数時間の汽車の旅で遭える距離にいながら、お互い、そんことを知らなかった。
弟は土地の新聞で兄の名を知った。それから送った手紙が廻り廻って兄ヘルンに達したのはフィラデルフィアのグールドの家にいた時であった。ヘルンは最初疑ったらしいが、明らかに分ってから、フィラデルフィアからもニューヨークからも弟に文通した。
また、この頃、ニューオーリンズから『タイムズ・デモクラット』の主筆ページ・ベーカーもニューヨークに来ており、ヘルンと度々遭った。
ベーカーは、ヘルンに戻って欲しかったようだが、そうは言い出せなかった。
八雲はニューヨークで別な人物と会い、それが、来日へのきっかけの一つだったと思われる。
ヘルンがニューオーリンズ時代から通信していたが、ニューヨークへ来てからクレイビールの紹介で遭ったパットンという『ハーパーズ・マンスリー』の美術主任の記者があった。二人は友人になった。ヘルンは西四十七丁目一三三のパットンをたびたび訪れた。パットンは日本の美術文学に関する知識を有して書物も沢山もっていた。ヘルンは以前から相応に日本に関する知識をもっていたが、その書物は多くは珍しかった。
ニューオーリンズの博覧会で、日本の事務官服部一三に遭い、彼を質問攻めにしたことは、以前ご紹介した。
もちろん、博覧会も来日につながる一つの契機ではあったろう。
加えて、このパットンとの縁が、日本への関心をより強くしたと言える。
当時パットンに送った手紙。
パットン様
いろいろ珍しい貴重な書物を貸して下さった事に対する御親切は言葉では述べつくされません。皆私に新しい物で、それを見るだけでも非常な楽しみです。チェンバレン氏の『古事記』の訳は特別に面白い物でした。ーそれから日本の神話や国語に関するアイヌの影響と言う人種学上の研究も。
八雲は、この後、ローマ字で日本語を書いてフランス語で直訳してある絵入りの本や、フランスの日本研究者として有名なレオン・ド・ロニーの『日本歴代史』をパットンに勧めている。
さて、いよいよ、日本への旅立ちだが、その内容は次回。
