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田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)より(19)


 妻のセツに関する本の記事が続いたが、久しぶりに八雲自身の本のこと。

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田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)
 
 田部隆次著『小泉八雲』(副題「ラフカディオ・ヘルン」)の十九回目。

 初版は1980年に北星堂書店から刊行され、今年3月に中公文庫で再刊。
 とはいえ、本書の「序」で著者は、この伝記の第一版は、大正三年四月、早大出版部から出た、と記している。

<目次>
□序
□故小泉八雲の著作につきて  坪内逍遥 ※「つきて」は原文のママ
□序  西田幾多郎
□小泉八雲先生を懐ふ  内ケ崎作三郎
□1 ギリシャからアイルランドへ
□2 大叔母のてもと
□3 学校生活
□4 シンシナティ
□5 ニューオーリンズ
□6 西印度、フィラデルフィア、ニューヨーク
□7 横浜から松江
□8 熊本
□9 神戸
□10 東京 その一
□11 東京 その二
□12 思い出の記  小泉節子(セツ)
□13 交際と交友
□14 人、思想、芸術
□15 ヘルンの通った道
□16 著書について
□17 余禄
□18 年譜(生涯、著作遺稿等)
□小泉八雲ー名の無き庶民の心を語り継ぐ  池田雅之
□索引

 「ニューオーリンズ」から。

 『タイムズ・デモクラット』の文学部長となった八雲は、フランス文学を中心に多くの外国文学の翻訳を同紙に掲載し、その数は187篇に達していた。

 その中には、『八雲の妻』でご紹介した、ピエール・ロティ(本書ではロチ)も含まれる。

 当時モーパッサン、ロチ、アナトール・フランス等はまだ英米の読書界にあまねく知られなかった。これ等の文人殊にロチとフランスはヘルンによって初めて英米の文壇に紹介されたのであった。ロチの文体は晩年に至るまでヘルンの賞賛を絶たなかったのである。日本で病気にかかった時、当時「読みかけの『英人なき印度』を読み了らないうちに死にはせぬかという懸念が最も恐ろしかった」と自白している。
ヘルンはこの時代にロチと文通していた。ロチはまだ発表しない物をまずヘルンに送って、ヘルンがこれを翻訳した出した物もあった。

 よって、来日前の1887年刊行の『お菊さん』を八雲は読んでいる。

 ニューオーリンズ時代の八雲の功績は、海外作品の翻訳にとどまらない。

 1885年『ゴンボ・ゼーブ』と題して、ルイジアナ州、ニューオーリンズの黒人の間に行われる諺三百五十種を英仏の二国語に訳した一種の辞書ようの物を友人コールマンによって出版した。それから同じ書肆から匿名で『ラ・クジーヌ・クレオール』と題するクレオール風の料理の書物を出版した。それから『ニューオーリンズの歴史的スケッチおよび案内記』と題する書物を編纂して出版したが、少なくともそのうち二章だけはすでにヘルンが新聞『アイテム』および雑誌『ネーション』に発表した物であった。この書物は今もなお最もよいニューオーリンズの案内書だと言われている。

 ということで八雲は、ニューオーリンズに関し貴重な作品を残している。

 なお、以前「小泉八雲記念館」サイトの下記の画像を借りてご紹介したが、この料理の本は売れ行きは良かった。
2025年11月6日のブログ
小泉八雲記念館サイトの該当ページ

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 これらの本は、1884年のニューオーリンズ百年祭記念博覧会の間に間に合うよう出版予定だったが、遅れて翌年刊行となった。

 この博覧会で日本の事務官服部一三に遭った。当時彼は、日本の事物に興味を有して種々の質問をする記者もと驚いたという事である。この博覧会の記事を幾篇か、『ハーパー雑誌』に出したのがハーパー書肆と関係するようになった原因であった。

 この博覧会が、八雲にいっそう日本への興味を持たせることになった。


 ニューオーリンズ時代は、八雲に大きな影響を与えた友人との出会いもあった。

 その一人が、若きルイジアナ人でウエスト・ポイント兵学校出身の中尉オスカー・クロスビーだった。

 クロスビーは、八雲にハーバート・スペンサーの著作を読むよう勧めた。

 1887年4月に、エリザベス・ビスランド(「ばけばけ」のイライザ・ベルズランド)に送った手紙から。
 なお、『タイムズ・デモクラット』の同僚だったビズランドは、その頃、ニューヨークに移っていた。

 私は友人にことごとく、ハーバート・スペンサー(まず『原理』から始めて)を読む事を勧めている。急には読めないが非常にためになる。人間の知識思想等をまとめる力がある。私はこれまで、スペンサー宗の改宗者を三人作った。スペンサーを読むのには、一節ずつ読むのに限る、一節ずつ番号がついている。今生物学の二大冊を読んでいる最中。社会学一冊は卒業した。心理学は最も力を尽した書物だが、あと廻しにするつもり。全部卒業するには四年もかかる。しかし『原理』には全体の要領がある。外の物は敷衍に過ぎない。スペンサーを読めば、人間知識の最も滋養ある部分を消化したような物である。それからその力のある引き締まった流暢な文体は研究の価値がある。

 ヘルンがアメリカで求めた書籍で、日本でもまた取り寄せた物の中に、スペンサーの書籍が含まれる。
 著者は「ヘルンは進化論と、仏教の輪廻説とを結び合せて、独特の世界観をつくっていた」と書いている。

 ということで、私もスペンサーを読みたいとは思っているが、未読。

 Wikipedia「ハーバート・スペンサー」より。
Wikipedia「ハーバート・スペンサー」
ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer、1820年4月27日 - 1903年12月8日)は、イギリスの哲学者、社会学者、倫理学者。チャールズ・ダーウィンの『種の起源』を読み、そこで表現されている自然選択説を適者生存(survival of the fittest)と言い換えた(『生物学の原理』(1864))ことで知られる。スペンサーは適者生存を生物の進化に限らず、社会学や倫理学にも応用して議論を展開した。

スペンサーの著作は多岐にわたり、倫理学、宗教学、人類学、経済学、政治理論、哲学、文学、天文学、生物学、社会学、心理学など幅広い分野に貢献する博識者として知られている。

 八雲は、海外文学の翻訳や地元ニューオーリンズ関連の著作の他、小説もこの時期に書いている。

 代表作となった『チタ ラスト島の追憶』だ。

 これは、1884年夏に、メキシコ湾内、ミシシッピ河口バラタリア湾の小さな島グランド島を訪れた際に聞いた、近くのラスト島が1856年に暴風に襲われた時の話を元にしている。

 永井荷風が『濹東綺譚』の中で、この小説の描写力を高く評価していることは、以前ご紹介した。
2025年12月16日のブログ

 さて、八雲のニューオーリンズでの生活も、十年を経た。

 文名も高くなり地位もたしかであった。しかしどうしてもヘルンにつき物の放浪愛はまた頭を上げて来た。「波止場に出て船ばかり見ている」と言う不安の念は、失意の時にも得意の時にも、ヘルンにはつき物であった。

 1887年6月、八雲は、ニューオーリンズを出発した。

 食事の世話になっていたコートニー夫人、そして娘のエラは泣いた、と言う。

 しかし、まっすぐ日本に来たわけではない。

 その後については、次回。


 朝ドラ「ばけばけ」では、松江到着後の物語が中心なので、来日前の八雲のことはあまり語られないが、ニューオーリンズの十年における彼の業績は知っておくべきだと思う。

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by kogotokoubei | 2026-01-09 12:57 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛
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