長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』より(4)
2026年 01月 06日

長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)
長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の四回目。
初版は松江今井書店から1988年刊行。
2014年に全面改稿新版が同書店から出され、2025年9月に出されたこの潮文庫版は、新版を一部加筆修正したもの。
著者は、1940年、新潟生まれ。新潟大学人文学部で史学を専攻し、コロンビア大学で修士取得。
一時期会社員、前後して高校教諭を勤めた方。
本書の他に、『わが東方見聞録ーイスタンブールから西安まで177日』(朝日新聞社、2008年)などがある。
<目次>
□小泉セツ関係系図
□1 セツの生い立ち
□2 松江士族の没落とセツ
□3 ハーンとの出会いと結婚
□4 結婚生活
□5 未亡人時代
□思ひ出の記
□あとがき
□文庫版あとがき
□解説 怪談文学創作の最大の功労者・小泉セツの人生 小泉凡
[巻末付録]
□セツ・ハーン略年譜
□セツの「英語覚え書帳」
巻頭の系図の写真。

この系図の、小泉家と稲垣家の一部を拡大。

残念ながら、両家の関係を示す線は、引かれていない。
今後、分かったらご紹介するつもりだ。
引き続き、「ハーンとの出会いと結婚」から。
前の記事で紹介したが、セツ自身の言葉、そして田部隆次著『小泉八雲』で、二人の出会いは明治二十三年(1890)の十二月、結婚は西田千太郎の媒酌ということになっていた。
しかし、後年、結婚は媒酌人のない簡素なものだったという、富田旅館の女将ツネの言葉が、松江で八雲を顕彰する「八雲会」設立の中心メンバー、桑原羊次郎の著書で明らかにされた。
ネツの証言には、妾だったという意味合いが含まれていた。
しかし、セツとハーンの長男である一雄は、「妾の世話」の意味合いを持つツネの証言に強く反発し、ハーン生誕百年(1950)に出版された『父小泉八雲』の中で、改めて、西田千太郎を「両親の媒酌人」と呼び、二人は「明治二十三年十二月」に結婚したと書いたのである。同じ年に、田部隆次の『小泉八雲』(第三版)が、北星堂から「余禄」を付して出版されたが、そこには、桑原羊次郎の主張は取り上げられもせず、ツネの談話は、言わば一旦封じられた。
長男一雄の話は、母は妾ではなく正式に妻として八雲と一緒になったと思いたい、そんな気持ちが反映されていたのかもしれない。
八雲の弟子だった田部隆次も、師匠を庇う気持ちがあったように察する。
しかし、明治二十四年の一月か二月に書かれたと思われる八雲の西田への書簡の中で、八雲が住み込みの女中を求めていると書かれていたことに加え、西田の日記の検証の結果、新たな事実が浮かび上がってきた。
郷土史家の池端達雄氏は、『西田千太郎日記』の刊行に向けて日記の原本を読み進む間に、元の文字が消され、その脇に「節子氏」あるいは「妻君」と書かれた箇所出会われた。『山陰新聞』の当時の主筆(岡本金太郎)は、西田の中学の同級生であり親友である。氏は国会図書館に赴いて『山陰新聞』のマイクロフィルムを繰り、そこが「ヘルン氏の妾」と「愛妾」(二箇所)とあるのを確認された。日記に手を加えたのは、日記を保管した西田の次男(敬三)で、ハーン・セツの遺族に配慮してのことであることが、後に知られる。
この新事実に基づき、またツネの証言をも取り込んで、詳細な考証が行われ、それは『ヘルンとセツの結婚』と題する論稿となって、昭和四十九年(1974)の『山陰史談』の誌上で発表された。大きな反響を呼んだこの論稿によって、十二月に西田の媒酌で結婚したとする旧来の説明が退けられ、「セツが、まずは二月頃、住み込みの女中ないし、それに類する者として、ハーンの家に住むようになった」という解釈が、支配的となったのである。
では、なぜ、セツは前の年の十二月と語っていたのだろうか。
著者は、あらためて、出会いの時期を推理する中で、真相に迫ろうとしている。
出会いの時期
セツがハーンにいつ出会ったかを、明確に知ることはできない。セツは「十二月」で通している。また、田部隆次は、先に引いた『小泉八雲』第三版の「余禄」に、「ヘルンと女性、小泉節子夫人」を収め、その中で、「夫人は・・・・・・明治二十三年十二月二十三日八雲先生と結婚された」という一文を入れた。
しかし、ハーンは一月の中旬から十日間ほど風邪で伏せっている。その時にセツが傍らにいなかったことは、住み込みの女中を求めている書簡で知られるだけではない。西田のために「離れ座敷」に度々使いをした弟の精が、「十二月の結婚」は誤りと手紙に書いたこと、さらには、セツが「思ひ出の記」に、「私の知る限りでは、ヘルンは晩年に至るまで、全く病気をしませんでした」と語っていることで、明らかである。
なぜセツは「十二月」と言ったか。それは恐らく、次の理由からであろう。「いつ結婚したか」という、彼女には取り繕って答えるほかない質問に対して、ハーンの家に入るまで彼女の生活の暦だったと思われる旧暦で、その時期ーそれはたまたま「年が越せる、越せない」を意味し得る年の瀬であったーを口にし、以後それで通してしまったと考えられることである。
明治二十年代、すでに改暦は行われていたが、人々の暮らしが旧暦を元にしていたことは、十分考えられる。
八雲がニューオーリンズ時代の新聞社の同僚で、「ばけばけ」では、松江に八雲を訪ねたことが描かれた女性のモデル、エリザベス・ビズランドは、『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡』の中で、「結婚したのは、1891年の1月」と記している。
これは、セツの「十二月」に、一ヶ月を機械的に加えたものと解釈できる。
ハーンの異母妹のミンニ―・アトキンソンが西大久保に遺族を訪ねた。この時に同伴したニナ・ケナードが、結婚は「未亡人が我々に語っている通り、1891年の早い頃に行われた」と書いているが、これも同じように理解すべきものであろう。
前述したように、西田千太郎に八雲が送った手紙に住み込み女中を求めていると記してあるが、その手紙には日付がなかった。
しかし、その内容には、病の床に苦しむ西田を励ます言葉があるから、八雲自身が風邪で寝込んだ後のことと推定できる。
八雲の風邪が治った後と思われる明治二十四年(1891)1月24日付けの西田宛書簡で、26日から出勤できると書いている。
西田千太郎は彼の日記で、1月27日から2月11日まで、結核の熱と咳で欠勤していると記している。
八雲は、その27日から連日のように西田を見舞いに行っている。
ハーンは当時、三度の食事から風呂に至るまで、富田旅館のお信と一時雇いのお万の世話を受けていたが、その二人の女中の派遣の仕方をめぐって苛立ちが絶えなかった模様だ。
また、主人とのいざこざで、八雲は、富田旅館の世話にはなりたくなかった。
そんなこともあって、いろいろと心労もあったのだろう。
「もう一ヶ月近くもの間、朝の三時前に寝つけたこともない」と手紙に記している。
田部隆次が結婚の日として挙げた十二月二十三日は、旧暦・新暦の換算をすれば、二月二日となる。仮に日については正確を欠くが月は動くまいと考えるとしても、セツ自身が「私が参りました」と表現した「日」は、二月十日までの間と見なければならない。とすれば、セツとハーンの出会いは、住み込み女中を求めているという、手紙に示された状況の中で把握するのが、まず自然であろう。つまり、書簡中の女が来たにせよ、来なかったにせよ、結局うまくいかなかった後に、セツが入ったと考えられるわけである。そして、その時は、まずは「二月の上旬」ということになる。
なんとか、出会いの時期は特定できたようだ。
著者による二人の結婚に関する推理の続きは、次回。
