長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』より(3)
2026年 01月 05日

長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)
長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の三回目。
初版は松江今井書店から1988年刊行。
2014年に全面改稿新版が同書店から出され、2025年9月に出されたこの潮文庫版は、新版を一部加筆修正したもの。
著者は、1940年、新潟生まれ。新潟大学人文学部で史学を専攻し、コロンビア大学で修士取得。
一時期会社員、前後して高校教諭を勤めた方。
本書の他に、『わが東方見聞録ーイスタンブールから西安まで177日』(朝日新聞社、2008年)などがある。
<目次>
□小泉セツ関係系図
□1 セツの生い立ち
□2 松江士族の没落とセツ
□3 ハーンとの出会いと結婚
□4 結婚生活
□5 未亡人時代
□思ひ出の記
□あとがき
□文庫版あとがき
□解説 怪談文学創作の最大の功労者・小泉セツの人生 小泉凡
[巻末付録]
□セツ・ハーン略年譜
□セツの「英語覚え書帳」
巻頭の系図の写真。

この系図の、小泉家と稲垣家の一部を拡大。

残念ながら、両家の関係を示す線は、引かれていない。
今後、分かったらご紹介するつもりだ。
「ばけばけ」では、ヘブン(八雲)とトキ(セツ)が、ついに結婚することになった。
このドラマでも、女中なのか妾なのかで騒動があったが、実際に二人が夫婦になる経緯は明白ではない。
「ハーンとの出会いと結婚」から。
田部隆次著『小泉八雲』や、同書、お呼び本書所収のセツによる『思い出の記』の内容と重複する部分もあるがご容赦のほどを。
なお、結婚に至る経緯に関しては、上掲書はもちろんのこと、さまざまな記録や伝聞にあたり、その真相を辿ろうとする本書は、一つのミステリー作品を読むような味わいがある。
ハーンが松江に着いたのは、セツ二十二歳の明治二十三年(1890)の八月三十日である。その日から三食賄い付きで富田旅館に住み、秋も深まった頃、末次本町(京店)の「離れ座敷」に転居した。それは織原万次郎(後の第三代松江商工会議所会頭)の二階建て隠居屋を借家にしていたもので、宍道湖の水が、ちょうど大橋川となって東に向かう地点の北岸という、景勝の地にあった。
富田旅館では、三十二歳になる女将のツネと、当時女中働きをしていた、十四、十五歳のお信が八雲の世話をしていた。
なぜ富田旅館から転居したのかは、これまでもご紹介しているが、あらためで本書から。
十一月と思われるが、ある日曜日、ツネとお信はハーンの一畑(いちばた)薬師参詣にお伴をして、行楽の一日を送った(根岸磐井『出雲に於ける小泉八雲』)。小蒸あ、にしかわ気船に二時間揺られて宍道湖を渡り、「千百三十八段」の石段を踏んで境内に入り、「目のお薬師さん」に参詣して精進料理を食べる。
八雲は、日本で就職の世話にあったチェンバレンへの手紙で、「この地で目を患う者は、皆ここに旅をする」と記しているらしい。
目を患うのは、ハーンでありお信であった。後年ツネは、「女中お信が時々眼み且つ眇目(すがめ)であったのに同情されて、自ら医者を訪問して自費で療治を頼まれた・・・・・・」と語っているが、これは十一月十八日の『山陽新聞』が、西川自省眼科医とハーンとの善意の応酬を含めて、「美事」として報道したものである。宿の主人(太平)は、お信の眼病に無頓着であった。これに対する憤りが、ハーンの転居の理由であると、セツは語っている。
このあたりは、「ばけばけ」でも、簡略的ではあるが描かれていた。
さて、問題(?)の、八雲とセツの出会い時期のこと。
ハーン自身は、現在に残る資料で見る限り、セツとの出会いについて全く語っていない。一方セツは、ハーン亡き後、その点を問われる度に、ごく自然のことながら、当たり障りのない答えでかわしていたようである。たとえば、晩年、『東京朝日新聞』の記者が、ハーン逝去二十五年(1929)を記念して西大久保の家を訪ね、六十一歳のセツに思い出を語らせた時に、彼女は次のように話している。
その年の十二月私は八雲の許に嫁ぎました。私の実家は古い士族ですが
父は亡くなっていましたし別に反対を唱える親戚もなかったのです。故人の
勤めていた中学校の西田さんという方が仲に立たれて話をまとめて下さった
のでした。
二人の結婚は、セツの人生での最大事件であり、ハーンの生涯に興味を抱く者が等しく関心を寄せるところである。そして、そのハーンの正伝と言うべき伝記は、ハーンの教え子である田部隆次が、近所の小泉家を頻繁に訪れ、セツの全面的な協力を得て執筆し、大正三年(1914)に『小泉八雲』と題して公にされていた。そこにも、また、二人が西田千太郎の媒酌によって、明治二十三年の十二月に結婚したと記されているのである。また、セツが外部者の「ご結婚は」の質問に対して、初めから「仲人は西田」と答えていたことは、野口米次郎の『ジャパン・タイムズ Japan Times』(1904・12・12)の記事でも知られる。
セツが言う亡くなった父とは、実父小泉湊のことだろう。
さて、この出会いの時期、そして、西田千太郎が媒酌人ということについては、後年、疑問が呈されることになる。
田部隆次著『小泉八雲』が刊行された翌年、松江でハーンの顕彰を趣旨とする「八雲会」が設立された。
その中心となった松江の代表的な知識人、桑原羊次郎が、後年『松江に於ける八雲の私生活』(1953)を著したのだが、その書において、セツの言葉、そして、田部による伝記とは異なる内容が指摘された。
それは、富田旅館の女将ツネの証言として、「ハーンの結婚は媒酌人を入れない簡単なもの」と紹介したのだ。
果たして、実際の八雲とセツの結婚は、どんな形で、いつのことだったのか、本書著者の捜索が続くが、その内容は次回。
昨日は、今年の初テニス、その後の新年会だった。
良き酒、良き肴、そして良き話で盛り上がった。
今日は、会社は休み。
私の仕事はじめはあす。
本年も、いろんなこと、あちたりこちたりのブログになりそうですが、よろしくお願いします。
