長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』より(2)
2026年 01月 03日
久しぶりに、この本の続き。

長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)
長谷川洋二著『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の二回目。
初版は松江今井書店から1988年刊行。
2014年に全面改稿新版が同書店から出され、2025年9月に出されたこの潮文庫版は、新版を一部加筆修正したもの。
著者は、1940年、新潟生まれ。新潟大学人文学部で史学を専攻し、コロンビア大学で修士取得。
一時期会社員、前後して高校教諭を勤めた方。
本書の他に、『わが東方見聞録ーイスタンブールから西安まで177日』(朝日新聞社、2008年)などがある。
<目次>
□小泉セツ関係系図
□1 セツの生い立ち
□2 松江士族の没落とセツ
□3 ハーンとの出会いと結婚
□4 結婚生活
□5 未亡人時代
□思ひ出の記
□あとがき
□文庫版あとがき
□解説 怪談文学創作の最大の功労者・小泉セツの人生 小泉凡
[巻末付録]
□セツ・ハーン略年譜
□セツの「英語覚え書帳」
巻頭の系図の写真。

これまで、生家の小泉家と養女となった稲垣家は、遠い親戚、と紹介してきた。
それは、私が読んだどの本にも、そう書かれているから。
しかし、もう少し両家の関係を知りたいとは思う。
この系図の、小泉家と稲垣家の一部を拡大。

残念ながら、両家の関係を示す線は、引かれていない。
今後、分かったらご紹介するつもりだ。
「ばけばけ」を、私が休みの時は、朝カミさんと一緒に観ている。
私が出社する日は、少し早めに出るが、カミさんは時計代りに毎日観ている。
私は、見逃した日を含め、ほぼ、毎週土曜日にBSで一週間分を観る。
カミさんは、トキ(セツ)の父親は牛乳配達により僅かながらも仕事をしているが、祖父がまったく働くことなく、トキの女中の俸給に依存していることを、不満に感じているようだ。
カミさん、没落士族のことを、よくは知らないと思う。
ということで、前回はセツが養女となった稲垣家のことを少しご紹介したが、今回は、松江の没落士族にことについて、「第二章 松江士族の没落とセツ」から。
貧窮士族の数
松江士族のうち、どのくらいの人々が生活の資(し)に事欠くまでに零落したのかは、当時の『山陰新聞』によって、その概要を知ることができる。同紙は、セツが十七歳になった明治十八年(1885)二月九日付の社説で、貧窮士族対策を論じているが、その中で、松江居住の士族約二千三百戸に七割を、「自活の目途(もくと)なきもの」とし、その上、全体の三割を「目下飢餓に迫るもの」としている。『山陰新聞』はまた、翌十九年五月十八日に、「士族生活概表」なるものを掲載した。これは、新任の県令籠手田安定(こてだやすさだ)の諮問に対する委員会の報告である。それによると、松江市及び近村に居住する士族のうち、五十八戸、二百四十人が「乞食するもの」であり、ほあに、三百六戸、千百十三人が「在籍無住にして詳(つまびら)かならざるもの」であった。「自活の目途なきもの」の割合や、「乞食するもの」の数は、セツとハーンが出会う明治二十四年(1892)の初め頃までには、当然ながら増えていたことであろう。
このあと著者は、例外的に貧窮を免れた者のいたことを補足はしているが、大半の士族が零落していたことは、間違いないだろう。それは、松江に限ることではない。
新政府も、士族に対する救済措置とすべく施策を実施はしていた。
政府は士族に就業の資金を与えようとして、家禄の奉還と引き換えに、家禄の、即ち、年々の米の支給額の、六ヶ年分を一括して下付することにし、明治七年(1874)から八年にかけて家禄奉還の申し出を受け付けた。その結果は、多くの士族が奉還を願い出て資金を手にし、それを彼らの企てに投じたが、その大半が、極めて短い期間に、その資金を家屋敷もろとも失うことになった。それは、彼らが財産と生計の手立ての事実上すべてを失ったことを意味する。
『華士族秩禄処分の研究』によると、全国的に見て、士族の約四分の一がこの機会に就業資金の下賜を受け、そのうち、「十人に八、九人」が貧民に転落している。これが、まさに政府が八年七月に奉還願いの受け付けを停止した理由でもあった。不幸にして、セツの養父金十郎も、その「八、九人」の一人となったのである。
金十郎が家禄奉還出願者となったのは、セツが満七歳の明治八年四月のこと。
しかし、彼は、実業の世界で士族の例外的な成功者になるには、あまりに人が良く、あまりに善良であり、すぐにも狡猾で薄情な手合の詐欺にかかった。稲垣家もまた、家禄奉還による資金を失い、祖母橋(そぼばし)脇の先祖代々の屋敷を明け渡さなければならないことになった。
セツが八歳の時、稲垣一家は城下なる内中原町を去り、四十間堀という外堀を西に越えた中原(なかばら)町に居を移した。ここは城下町の西南の外れに当たり、家もまばらで田舎の気配の漂う所である。家のすぐ北側に大雄寺川(だいゆうじがわ)という小さな川が流れていた。セツは、入学して一年にもならない小学校へも通えず、今や、この慣れない土地での孤独な少女となったのである。彼女は所在なさに、その小さな川の岸に出て一人淋しく笹舟を浮かべて遊び、ほとんど半日も岸の柳の幹にもたれて、水中を往来する小さな魚の群れを眺めて暮らすようになった。こうした折には、よく向こう岸で釣人が糸を垂れ、とぎれとぎれの低い声で安来節を歌っていた。
前回ご紹介したように、稲垣家は代々百石を食み、戦時には、十二の家来を抱える、いわゆる並士の家柄で、家格は、約千人の士分の侍の中ほどの身分だった。
2025年12月26日のブログ
著者は、『島根県士族家禄奉還資金調』を元に、金十郎が受け取った金額は680円50銭7厘、と記している。
決して少額とは言えないだろう。
当時と今の貨幣価値の違いはいろんな試算がありえるが、明治20年代から現在は物価が8000倍という説がある。
そうすると、680円x8000=5,440,000円。
だからこそ、虎視眈々と「士族の商法」を狙う悪者もうようよしていたのだ。
ちなみに、八雲の松江時代の月給が100円なので、800,000円、セツの女中の月給20円は、160,000円。
「ばけばけ」でトキの幼馴染サワの小学校の初任給4円は32,000円、となる。
八雲とセツの長男一雄は、金十郎が詐欺の相手から無実の罪を着せられ、裁判費用で全財産を失い、日々の生活費にも事欠く有様となった、と書いている。
しかし、本書の著者が古い裁判記録をあたっても、その詳細は確認できなかったようだ。
いずれにしても、稲垣家は、窮地に陥っていた。
誇り高き男、祖父の万右衛門が、しじみ売りや牛乳配達をするわけもなく、まさに、稲垣家の危機を、セツの女中奉公が救ったわけだ。
昨日は「ばけばけ」の総集編を楽しんだ。
年末に、トキ(セツ)とヘブン(八雲)の仲が急接近してきた。
次回は、二人の結婚に至る過程に諸説あることについて本書からご紹介する予定。
