田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)より(14)
2025年 12月 16日

田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)
田部隆次著『小泉八雲』(副題「ラフカディオ・ヘルン」)の十四回目。
初版は1980年に北星堂書店から刊行され、今年3月に中公文庫で再刊。
とはいえ、本書の「序」で著者は、この伝記の第一版は、大正三年四月、早大出版部から出た、と記している。
<目次>
□序
□故小泉八雲の著作につきて 坪内逍遥 ※「つきて」は原文のママ
□序 西田幾多郎
□小泉八雲先生を懐ふ 内ケ崎作三郎
□1 ギリシャからアイルランドへ
□2 大叔母のてもと
□3 学校生活
□4 シンシナティ
□5 ニューオーリンズ
□6 西印度、フィラデルフィア、ニューヨーク
□7 横浜から松江
□8 熊本
□9 神戸
□10 東京 その一
□11 東京 その二
□12 思い出の記 小泉節子(セツ)
□13 交際と交友
□14 人、思想、芸術
□15 ヘルンの通った道
□16 著書について
□17 余禄
□18 年譜(生涯、著作遺稿等)
□小泉八雲ー名の無き庶民の心を語り継ぐ 池田雅之
□索引
今回から「ニューオーリンズ」。
さっそく冒頭から。
ニューオーリンズに到着したのは、1877年11月12日であった。ニューオーリンズ時代のヘルンの動静、勉強、修養、一切の事はシンシナティ時代の友人クレイビーに送った60通に近い手紙、および老友ワトキンに送った数多の手紙によって知る事ができる。
メキシコ湾に注ぐミシシッピの河口に近い大都会、ルイジアナ州の最大の市ニューオーリンズはシンシナティとほとんど同じ程の都会であった。綿と砂糖の集散地、あらゆる人種の都会、フランスからアメリカへ売り渡されたがまだフランス人フランス語それからスペイン人スペイン語の勢力が残っている都会であった。それから無花果(いちじく)の甘きところであった。ヘルンの到着した頃のニューオーリンズは南北戦争の影響を受けて幾分疲弊していた。
シンシナティからニューオーリンズへの距離を、Google mapで調べた。
Google mapの該当地図

二つの都市の距離は約800マイル。約1280km。
東京から北なら旭川、南なら鹿児島までの距離に相当する。
アメリカは、広いのだよ。
南北戦争が終ったのは1865年。
戦争による疲弊がある中、八雲が訪れた時期、ニューオーリンズでは熱病が大流行し七千人の住民が犠牲になった。
翌1878年夏、ヘルンもその軽い一種dengue(デング)にかかって一週間臥床した。僅かに一週間で痩せ衰えて体重90ポンド(41キロ弱)以下になった。その翌年、また一回これにかかった。小説『チタ』の結末にこの経験を利用している。
寒いシンシナティをせっかく離れて向かった南の地で、挨拶代わりに当地の洗礼を受けた、ということか。
小説『チタ』(『チータ』とも)は、『ユーマ』とともに、ニューオーリンズ時代の八雲の傑作として知られている。
大嵐に襲われながら生き残ったクレオールの少女を描いた作品が『チータ』、黒人奴隷女性を主人公としたものが『ユーマ』。

永井荷風の『濹東綺譚』の中にこんなくだりがある。
主人公が書いた深川洲崎遊廓の娼妓を主題にした小説を読んだ友人の言葉から。
「洲崎遊廓の生活を描写するのに、八九月頃の暴風雨や海濤(つなみ)のことを写さないのは杜撰の甚(はなはだ)しいものだ。作者先生のお通いなすった甲子楼(きのえねろう)の時計台が吹倒されたのも一度二度のことではなかろう。」と言われた。背景の描写を精細にするには季節と天候とにも注意しなければならない。例えばラフカジオ、ハーン先生の、名著チタ或いはユーマの如くに。
荷風が生まれた明治12年(1879)は、八雲のニューオーリンズ時代に当たる。
八雲作品における描写力を、荷風は高く評価していたのだ。
さて、ニューオーリンズの八雲。
しばらくは、シンシナティで勤めていた新聞社『コマーシャル』に、現地から記事を送っていた。
シンシナティでお世話になったヘンリー・ワトキンが八雲からの手紙を中心にまとめた『烏の手紙』の巻末に、次のような記事のタイトルが収められている。
『熱帯国の門において』『黒人問題について』『ニューオーリンズの寺院訪問記』『ニューオーリンズの怪談』『クレオールの恋歌』・・・・・・。
果たして、シンシナティの新聞で、こういった記事が歓迎されたのだろうか。
こんなのんきな文学的な通信は、一般読者には向かなかったと見え、最後に1878年3月24日、時事問題に関する通信一つあって、ヘルンの通信は『シンシナティ・コマーシャル』に絶えている。
ここで職業を得るまでに、再びシンシナティの初めのような困窮を嘗めた事はワトキンに送った手紙にも著しい。シンシナティで集めた書籍は全部ワトキンに託して置いたが、フランスの書物だけを残してあとはことごとく売り払って送金するように頼んだのもある。書物も売り、衣服も売って、二日に一度5セントの食事をした事もあった。
ということで、意を決して南下した八雲だが、ニューオーリンズでも、簡単に安定した職を得たわけではなかった。
その後のことは、次回。
