河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(48)
2025年 12月 15日
昨夜の「べらぼう」最終回、一橋治済の最期をあのように描くとは、びっくり。

河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)
さて、河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の最終四十八回目。
同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。
副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。
<目次>
□はじめに
□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり
□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨
□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す
□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝
□おわりに
いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。

杉浦日向子『江戸へようこそ』

鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。
翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。
平賀源内が亡くなったのは、安永八年。
“天明の浅間焼け”と言われる浅間山の大噴火があったのが天明三年(1783)。
重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのも、天明三年。
田沼意次の息子意知が城中で佐藤政言に斬られたのが天明四年(1784)。
十代将軍家治が亡くなり、田沼意次が老中の職を辞すのが天明六年(1786)。
恋川春町が亡くなったのが、寛政元年(1789)の七月七日。
滝沢馬琴が山東京伝を訪ねたのが寛政二年(1790)。
歌麿が美人大首絵で人気を博したのが、寛政二年から寛政三年(1791)。
松平定信を怒らせて山東京伝が手鎖五十日、蔦重が財産の半分を没収されたのが、寛政三年。
松平定信が、「尊号一件」によって徳川家斉の怒りにふれ老中を罷免されたのが、寛政五年(1793)。
蔦重が東洲斎写楽をデビューさせたのが、寛政六年(1794)。
同じ年に、蔦重は北斎もデビューさせている。
「第三章 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す」から。
さて、晩年の蔦重。
野心家の蔦屋重三郎のことだ、おそらくさまざまな企画を胸に秘めており、それを実現するため、多くの作家や絵師とタッグを組んで、世間をあっと言わせ、大いに儲け、吉原を復権させるつもりだったことだろう。
しかしながら、思いもしない病魔が、四十七歳の重三郎を襲いかかった。
脚気である。ビタミンB2が不足するとかかる病である。白米ばかり食べている江戸っ子に少なくない病気だった。もちろん、治療法はわかっていないから、体調は回復せずに床につくようになり、ついに寛政九年(1797)五月六日、四十八歳で死去してしまったのである。
亡くなる直前、重三郎は「俺は今日の午の刻(昼十二時)に亡くなるだろう」と自らの死期を予言したといわれる。
が、その時刻になっても、まだ息をしていたのである。このおり重三郎は苦笑し、「自分の人生は終わったが、まだ命の終わりを告げる拍子木が鳴らない。この遅さは何なのだろう」と戯れたと伝えられる。
「べらぼう」では、九郎助稲荷が、死期の予告に一役買っていた。
重三郎の遺体は、浅草新鳥越町の正法寺に葬られた。
墓碣銘が刻まれている。
その内容について、このシリーズの第二回目、今年1月8日の記事で紹介した内容と重複するが、今一度。
2025年1月8日の記事
狂歌仲間の石川雅望(まさもち)が刻んだ蔦屋重三郎の墓碣銘(ぼけつめい、故人の生涯や功績を墓石に刻んだ文)が今に伝わっている。そこには、「士気英邁、不修細節、接人以信」という一節がある。
「志が大きく、才知に優れ、小さなことにこだわらない大きな度量を持ち、人には信義をもって接する人物」という意味だ。
この碑文は当時の人びとも見たはずなので、多少の誇張があっても全くの嘘は書いていないだろうから、きっとそうした資質を有していたのだろう。だからこそ、重三郎は一代で江戸を代表する大きな版元に成り上がったのである。
石川雅望、狂歌師の宿屋飯盛(やどやのめしもり)である。
台東区大河ドラマ「べらぼう」活用推進協議会による特設サイトがある。
台東区の蔦重特設サイト
蔦重の墓の写真とキャプションを引用。

蔦屋重三郎は寛政9年(1797)に47歳で病没し、正法寺に埋葬されました。墓は戦災等で失われましたが、菩提寺である正法寺には復刻された蔦屋家の墓碑と重三郎母子顕彰碑が建てられています。碑には蔦重の本名「喜多川柯理」が刻まれ、碑文は蔦重と親交のあった石川雅望、大田南畝によるものです。
寺には江戸三大毘沙門天の一角に数えられる開運大毘沙門天もお祀りされています。
本書では、墓碣銘作者について石川雅望の名のみ紹介されているが、このように蜀山人との共作のようだ。
ちなみに、「べらぼう」でも描かれていたが、石川雅望は、重三郎の臨終を見届けていない。
雅望は、小伝馬町で旅籠屋を営んでいたが、寛政三年、家業について無実の罪によって江戸市中から追放されてしまう。重三郎が死去したさいも、まだ江戸の郊外に蟄居していたのだ。
重三郎亡き後、吉原は次第に寂れていった。
天保の改革が、追い打ちをかけた。
寛政の改革を含め、権力者が「改革」を叫ぶ時、それは、ほぼ決まって庶民のためにはならない。
それは、現代も然り、である。
江戸時代、権力者に果敢に立ち向かったジャーナリストが、蔦屋重三郎だった。
それも、抜群のユーモア感覚で、笑いとともに。
「重点支援地方交付金」は、自治体が自由に使えるといえば聞こえはいいが、実態は「物価高対策」を自治体に丸投げするということだ。
メディアは、お米券の手数料のこととか、各自治体の施策を紹介する前に、「物価高対策を丸投げした」ことを非難すべきなのだ。
もし、蔦重だったら、どんな策で対抗するのか、などと思う。
では、このシリーズ、「べらぼう」と同じ48回をもって、お開きとしたい。
長のお付き合い、誠にありがとうございます。
p.s.
「べらぼう」の視聴率が、「いだてん」に続くワースト2位とのこと。
私の大河ベスト2は「いだてん」と「べらぼう」である。
