田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)より(13)
2025年 12月 14日

田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)
田部隆次著『小泉八雲』(副題「ラフカディオ・ヘルン」)の十三回目。
初版は1980年に北星堂書店から刊行され、今年3月に中公文庫で再刊。
とはいえ、本書の「序」で著者は、この伝記の第一版は、大正三年四月、早大出版部から出た、と記している。
<目次>
□序
□故小泉八雲の著作につきて 坪内逍遥 ※「つきて」は原文のママ
□序 西田幾多郎
□小泉八雲先生を懐ふ 内ケ崎作三郎
□1 ギリシャからアイルランドへ
□2 大叔母のてもと
□3 学校生活
□4 シンシナティ
□5 ニューオーリンズ
□6 西印度、フィラデルフィア、ニューヨーク
□7 横浜から松江
□8 熊本
□9 神戸
□10 東京 その一
□11 東京 その二
□12 思い出の記 小泉節子(セツ)
□13 交際と交友
□14 人、思想、芸術
□15 ヘルンの通った道
□16 著書について
□17 余禄
□18 年譜(生涯、著作遺稿等)
□小泉八雲ー名の無き庶民の心を語り継ぐ 池田雅之
□索引
引き続き、「シンシナティ」から。
八雲が、フランスの詩人で作家のゴウティエの作品の翻訳をしたことを前回ご紹介した。
彼は、両親の離婚後、英国へ渡る前、11才からフランスの教会学校に入学しフランス語を身につけていたのだ。
その語学力は、後に訪ねる土地でも役に立つことになる。
さて、シンシナティ時代のこと。
すでに「ばけばけ」で紹介されている当時の彼の結婚について。
フィラデルフィアの眼科医であるグールドは、八雲の伝記を書いている。
また、ニーナ・ケナード夫人は、八雲研究家として知られ、彼女も伝記を著している。
それらによると、果たしてシンシナティで八雲が、正式に結婚したのかどうか、怪しくなる。
グールドは「ヘルンはこの時黒白雑種の婦人某と結婚しようとして正式の許可を得ようとした事から、『インクワイラー』社を退けられたのであった。(この当時、黒人の血は四分の一あっても、公然の結婚は許されなかった。しかし、この法律は間もなく廃せられた。)それから『コマーシャル』はヘルンを迎えた。しかしこの結婚は行われなかった」と言っている。ケナード婦人もその書中にヘルンが下宿せる家にアリシア・フォリーという雑種の女がいて冬の寒い夜半に凍えて帰る時、雨のふる夜半にびしょぬれになって帰る時、ヘルンのために火を作り食事を暖めて迎えてくれた。重き病に臥した時ヘルンを看護した。女から親切を受けた経験の乏しいヘルンはこの親切にほだされて、彼女と結婚する事は再生の恩人に対する義務であり、また迫害されたる種族に対する同情を示す所以であると考えた。そこでヘルンはクレイビールやテュニソンの諫言にも耳をかさないで彼女に求婚した。同時に彼女は忽ち増長して厚かましくなり気取屋になった。驚いたヘルンはシンシナティを逃げ出すに至ったと言っている。
真相は、分からない。
しかし、結婚に至っていなかったとしても、八雲が黒人への反感が強い時代に、一時でもアリシアとの生活を過ごしたのは事実のようだ。
日本でそうだったように、異人種や異文化にも愛すべき点を見つけようとする心が八雲にあったからと言えるだろう。
そして、アリシアとのことのみならず、八雲がシンシナティを離れさせる理由があった。
彼を食客として迎えていた恩人の話。
ワトキンは、シンシナティの記者は、ヘルンの技倆を嫉視したのと、ヘルンの人好きがしないのとで、疎外するようになったと述べている。晩年までやかましかった句読のことを、この時分からやかましく言って「オールド・セミコロン」という仇名を頂戴した事実もある。
シンシナティ時代の友人の一人テュニソンは、八雲がどこかへ移ることを決心した事情を次のように語っている。
ヘルンの文章ますます進むに随い、シンシナティにおける地位に対し不安の念を生じて来た。肉体精神、共に南方の空気や景色を渇望していた。シンシナティで非情に不快な夜に、いつもの通り夜業をしたある翌朝の事、雑談の折り記者仲間のうちに、メキシコ湾に臨んだ州の景色を述べた者があった。南北戦争前、綿で大財産を作った人の邸宅に関する話であった。白い円柱、国道に通じている入口の並木、後庭の方に延長している白壁の奴隷部屋、立派な馬車道、蔦の絡まっている檜、樫、泰山木の花の香、朝早くさえずる「モノマネ鳥」の歌など、・・・・・・ヘルンはその時何とも言わなかったが、非常に興味を以てこの話を一言一句をみ聴いていた事がその顔色で分った。
きっと、南の地の情景を、瞼に浮かべながら、その話を聴いていたのだろう。
アリシアとのこと、記者仲間とのことなどから疲弊していた時、ニューオーリンズが、次に目指すべき土地と次第に確信するようになったに違いない。
そして、八雲がシンシナティを離れる際の言葉をテュニソンはこう語っている。
「私は新聞に対する真面目さを失った。どうしても変化が必要だ。ここでは勉強ができないとか、友人がいないとかいう事でなくて、気候の悪いのは一番困る。ここの湿気と、寒暑の差異の激しいのは縮み上るようだ。早晩行くつもりであったが、光や、樹木や、鳥の声や、花の香や、そのほか景色の話の面白さに、私は急に決心したのであった。南方へ行けば身体にもよかろうと思われる。必ず働けると信ずる」
すでに記したが、シンシナティは、ほぼ北緯39度。
日本なら庄内地方。
ニューオーリンズは、北緯約30度。
日本なら屋久島あたり。
寒さに弱い八雲が、南を目指すのは分かるが、その後、また松江で震えることになるとは、その時、予想だにしなかっただろう。
27歳の八雲は、シンシナティを去って、ニューオーリンズに向かった。
1877年の11月のことだった。
次回から、「ニューオーリンズ」に進む。
