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田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)より(12)


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田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)
 
 田部隆次著『小泉八雲』(副題「ラフカディオ・ヘルン」)の十二回目。

 初版は1980年に北星堂書店から刊行され、今年3月に中公文庫で再刊。
 とはいえ、本書の「序」で著者は、この伝記の第一版は、大正三年四月、早大出版部から出た、と記している。

<目次>
□序
□故小泉八雲の著作につきて  坪内逍遥 ※「つきて」は原文のママ
□序  西田幾多郎
□小泉八雲先生を懐ふ  内ケ崎作三郎
□1 ギリシャからアイルランドへ
□2 大叔母のてもと
□3 学校生活
□4 シンシナティ
□5 ニューオーリンズ
□6 西印度、フィラデルフィア、ニューヨーク
□7 横浜から松江
□8 熊本
□9 神戸
□10 東京 その一
□11 東京 その二
□12 思い出の記  小泉節子(セツ)
□13 交際と交友
□14 人、思想、芸術
□15 ヘルンの通った道
□16 著書について
□17 余禄
□18 年譜(生涯、著作遺稿等)
□小泉八雲ー名の無き庶民の心を語り継ぐ  池田雅之
□索引

 引き続き、「シンシナティ」から。

 主筆のジョン・コカリルによって、八雲は『シンシナティ・インクワイラー』の記者になることができた。

 しばらくしてシンシナティで、ある事件が起こった。

 ヘルンがこの新聞に関係するようになってから間もなく、シンシナティで有名な「製革所(タンヤード)の人殺し」(ハーマン・シリングなる者、その仲間に殺された事件)として長く知られている事件が起こった。ヘルンが有名になった起りはそもそもこの事件から始まっている。入社後、間もない事であった。他の記者がことごとく出払った後であったので、急ぎの場合新参のヘルンをやってみたが、その記事は読者の大歓迎を受けて意外の成功をもたらしたと言われている。(グールドの説によればこの事件のあったのは1874年の一、二月頃で、新聞に現れたのは同じ年の十一月であったと言う。それにしてはその間の経過は余りに長い。屍体が永く隠されていたと見える)
 この事あって後、ヘルンは探訪、三面記事に最も重きをなすに至った。ヘルンは又その職務に対しては最も大胆機敏で、危険や困難を顧みなかった。

 グールドは、フィラデルフィアの眼科医で、一時期、八雲と親しくしていた。

 新聞記者として活躍するばかりではなく、同じ1874年、八雲は出資者を得て画家ヘンリー・ファーニ―と二人で絵入の日曜新聞「Ye Giglampz(イー・ジグランプス)」を発行した。
 
 本書掲載の表紙。

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 表紙に、A Prospect of Herr Kladderadatsch. Introducyng Mr. Giglampz to ye Publyckとしてクラッデラダッチ君が大きな片眼鏡をかけたジグランプスを大喝采のうちに公衆に紹介している絵がある。ジグランプスとは大きな眼鏡という意味である。

 ジグランプスの誌名は、八雲が眼鏡をかかていたことも背景にあるのかもしれない。

 この雑誌は時事問題などを中心に、絵と文章で風刺するなど、もっぱら滑稽を売りにしていたが、結果、9号で休刊となった。

 ワトキンは、ヘルンが出した記事の題があまりに大胆だと言うので、ファーニ―が勝手に変更したのをヘルンが不快に思ったことで廃刊になったと述べている。

 なお、ヘンリー・ファーニーは、その後、アメリカ先住民の絵で著名になった。

 ヘルンが当時シンシナティで得た友人は、不思議にもその後、いずえも名高くなっている。ファーニーは有名なる画家。ジョージ・ケーブルは相当の文人。ジェセフ・テュニソンは古文学の大家。クレイビールは音楽批評の大家として著述すこぶる多く、世界に名を馳せている。老友ワトキン、およびこれ等の人々と交際し議論する事、および僅少なる収入から衣食を節して書物を贖(あがな)う事はシンシナティ時代におけるヘルンの楽しみであった。

 1976年に、八雲は『インクワイラー』から『コマーシャル』の社員に転じた。

 膨大な読者量が彼の仕事を支えていた。
 学校生活が短かった八雲は、古今東西にわたる哲学、宗教、文学、科学の多方面の書物を貪り読んだ。
 
 そして、ゴウティエの怪談に興味を抱くようになる。

 テュニソンはつぎのように書いている。

  新聞記者の奴隷的生活も、彼の進歩向上の念を撲滅する事はできなかった。
  毎日警察事故の探訪、あの模倣のできない文体で数欄を書く事など終って、
  毎朝二時三時から暁に至るまで孤燈の下に書物と原稿用紙に大切な目を
  すれすれにして、ゴウティエを翻訳していた。

 かくて訳されたのは、『クレオパトラの一夜』『クラリモンド』『アリヤ・マーセラ』〔アッリア・マルチェッラ〕『ミイラの足』『オムファル』『カンダレウス王』等の怪談となってその後、出版された。ヘルンが大陸の新しい作家を英米の文壇に紹介した功労は認めねばならない。ゴウティエ、アナトール・フランス、ピエール・ロチ、いずれも初めて紹介したのはヘルンであった。

 ということで、八雲が怪談に興味を抱いたのは、日本が初めてということではなかった。
 

 フランスの詩人、作家であるゴウティエは、日本ではゴーチエとも呼ばれるが、1811年生まれで、1872年、八雲のシンシナティ時代に亡くなっている。

 Wikipedia「テオフィル・ゴーティエ」から引用。
Wikipedia「テオフィル・ゴーティエ」

 明るく楽天的な性質だったとされるが、その一方でたいへんな迷信家であったと言われる。晩年の幻想的な作品である『アヴァタール』、『邪眼』、『精霊』などにはその傾向が現れており、スウェーデンボルグの影響も認められる。
 1863年に、大半を若き日に執筆していた『キャピテン・フラカス』が大きな成功となる。1865年、マティルド・ボナパルトのサロンに招かれたのをきっかけに、皇帝ナポレオン3世の宮廷へつながる足がかりを得た。
 シャルル・ボードレールの詩集『悪の華』巻頭で「十全無瑕の詩人にして完璧なるフランス文学の魔術師テオフィル・ゴーチエ氏に」という献辞を受けた。
 ゴーティエ自身、ボードレールの死後に追悼文と作家論を書き、新版『悪の華』の序文となっている。また若き日のラフカディオ・ハーンが愛読し英訳も行っている。
 1872年、長年苦しんだ心臓病によりパリで没し、モンマルトル墓地に埋葬された。

 八雲の功績として、シンシナティ時代に、ゴウティエなどの翻訳をしていたことを、忘れてはならないだろう。
 とはいえ、ゴウティエもヘルンも、まだアメリカでは認められてはいなかったので、出版されたのは六年後、ニューオーリンズ時代のことだった。


 次回も、シンシナティ時代のこと。

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by kogotokoubei | 2025-12-13 13:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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