田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)より(10)
2025年 12月 11日

田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)
田部隆次著『小泉八雲』(副題「ラフカディオ・ヘルン」)の十回目。
初版は1980年に北星堂書店から刊行され、今年3月に中公文庫で再刊。
とはいえ、本書の「序」で著者は、この伝記の第一版は、大正三年四月、早大出版部から出た、と記している。
<目次>
□序
□故小泉八雲の著作につきて 坪内逍遥 ※「つきて」は原文のママ
□序 西田幾多郎
□小泉八雲先生を懐ふ 内ケ崎作三郎
□1 ギリシャからアイルランドへ
□2 大叔母のてもと
□3 学校生活
□4 シンシナティ
□5 ニューオーリンズ
□6 西印度、フィラデルフィア、ニューヨーク
□7 横浜から松江
□8 熊本
□9 神戸
□10 東京 その一
□11 東京 その二
□12 思い出の記 小泉節子(セツ)
□13 交際と交友
□14 人、思想、芸術
□15 ヘルンの通った道
□16 著書について
□17 余禄
□18 年譜(生涯、著作遺稿等)
□小泉八雲ー名の無き庶民の心を語り継ぐ 池田雅之
□索引
これまでは、小泉セツの「思い出の記」をご紹介してきた。
今回からしばらくは「シンシナティ」。
十九歳の八雲は、それまで養ってくれていた大叔母が破産し、大叔母の遠い親戚のいるアメリカはシンシナティを目指す。
この章の冒頭。
1869年、月日は分からないがニューヨークに着いたのは何でも金曜日であった。ここにどれ程留まったかは明らかではない。ある伝記作家は約二年と考えている。もし、それが事実なら彼はここで相当のドン底生活を体験したことであろう。
シンシナティに着いてから数か月は、大叔母ブレナン夫人の親戚であるヘンリー・モリスの妹婿宛てにブレナン夫人が送金をしていたので、しばらくは、その金を受け取るために通ったらしい。
しかし、その人と八雲は相性が良くなく、送金が途絶えてからは、八雲が訪ねることはなかった。
それからは、生きていくための八雲の格闘が始まる。
シンシナティの時分の事と言ってヘルンが人に語った事がある。シリア生れの行商人がヘルンを傭って小さい鏡を売らせた。およそこんな事にヘルン程不適任な人はあるまい。終日歩いて一枚も売れないで帰った。自分の失敗の言分けをしようとしてその荷物を下す際に、誤って鏡を一枚踏み破った。その砕ける音に吃驚(びっくり)して飛び出し、再びこの商人に顔を合せなかった。
そういう苦労を経てから、なんとか仕事を見つけるのだが、なかなか落ち着くことはできなかった。
異母妹であるアトキンソン夫人への手紙。
私はある会社へ書記として入社することができたが、もともと算数に長じないのみか、普通の計算さえ禄にできなかったので、駄目になった。それから電信配達になって電信局に出た。他の配達は、皆若い子供であるところへ、私が二十歳であるのは、すこぶる滑稽で、皆に笑われた。私は癪に障って給料をも受けないで止めた。友人は怒って世話をしないと言うし、下宿屋からは追い出された。最後に、宿屋の給仕となってストーブに火をたきつけたり、石炭を入れて廻ったり、何かしてその代りに食物と喫煙室に寝る事を得た。こんな事を一年半程続けた。その間に読書作文の時間を見出した。その頃書いた物語は今はもうなくなった。安い週刊新聞に出したが、原稿料は貰った事はない。その他商店の引札を配ったり、広告の原稿を書いたりして煙草や古着を買う程の金だけはできた。
今の世なら、フリーターとでもいえる、シンシナティにおける二十歳の八雲。
食べるのも大変な時期だったが、彼は公立図書館に通うなどして学ぶことを忘れなかった。
そういう八雲だったからだろう、彼がどん底にいる時に、支える人物に出会うことが多い。
その後ヘンリー・ワトキンという学問教養の深い親切な英国出身の活版屋へ紹介されて食客となった。ワトキンはこの少年を憐れんで家に入れた。掃除や使いあるきをして、ワトキンの「居候」となって、蔵書を借覧したりなどしていた。この人について活版事業を習ったが成功しなかった。
八雲が、宿屋でストーブに火をたきつけたり、石炭を入れて廻ったり、という雑用も経験したことから、私は、北国での少年時代を思い出す。
冬、教室を暖めるのは、ダルマストーブ。
交替の当番が、朝守衛さんに焚き木や古新聞をもらい、ストーブのコークスに火をつける。
ストーブの周りには棚があって、皆が弁当を置いて暖める。
教室には、沢庵の臭いが充満するのだった。
シンシナティの北緯は39度。
世界地図で北緯39度線を引くと、こうなる。
Wikipedia「北緯39度線」

アメリカではワシントンD.C.とほぼ同じ緯度。
日本なら、庄内地方。
中国なら北京、ヨーロッパならリスボンあたり。
さて、シンシナティでの生活のその後は、次回。
