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河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(47)


 昨夜の「べらぼう」には、驚いた。

 前回ラストに登場した謎の人物は、一橋治済にそっくりな男で、なんと彼が、斎藤十郎兵衛であるという、大胆な脚色。

 前回の記事でご紹介した通り、阿州侯(徳島、蜂須賀藩主)お抱えの能役者であった斎藤十郎兵衛。
 現在では彼が写楽であったとする説が有力だ。

 松平定信、長谷川平蔵や、柴野栗山らによって、見事(?)に治済を江戸から追いやり、十郎兵衛が治済になり変わった。

 十郎兵衛を抱える蜂須賀公も知っていることで、これは藩命であると十郎兵衛は言う。

 その十郎兵衛を見出したのが、蜂須賀家に仕えていた柴野栗山かと思いきや、平蔵が偶然町で見かけた、ということになっていた。

 ここは、栗山が十郎兵衛を知っていて、彼が筋書きを書いたとするほうが自然だったかな。
 松平定信、仇討ちが成就し江戸を離れる際、耕書堂に立ち寄った。
 本当は、黄表紙が好きで好きでたまらない定信。
 あくまで、国のために統制をしたのだ、という思いが伝わる。
 
 「べらぼう」は、全体を通して、一方的に田沼意次を断罪することも、松平定信を非難することもない。
 それでいいのだと思う。


 十郎兵衛の身代わり説、いつもなら「ありえない」と切って捨てたいような脚色なのだが、ここまでやってくれると、ある意味清々しくて、森下佳子に小言も言いにくくなる。


 早いもので、来週が最終回」。

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河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)

 さて、河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の四十七回目。

 同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。
 副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。

 <目次>
□はじめに
□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり
□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨
□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す
□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝
□おわりに

 いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。
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杉浦日向子『江戸へようこそ』

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 鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。
 翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。
 平賀源内が亡くなったのは、安永八年。
 “天明の浅間焼け”と言われる浅間山の大噴火があったのが天明三年(1783)。
 重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのも、天明三年。
 田沼意次の息子意知が城中で佐藤政言に斬られたのが天明四年(1784)。
 十代将軍家治が亡くなり、田沼意次が老中の職を辞すのが天明六年(1786)。
 恋川春町が亡くなったのが、寛政元年(1789)の七月七日。
 滝沢馬琴が山東京伝を訪ねたのが寛政二年(1790)。
 歌麿が美人大首絵で人気を博したのが、寛政二年から寛政三年(1791)。
 松平定信を怒らせて山東京伝が手鎖五十日、蔦重が財産の半分を没収されたのが、寛政三年。
 松平定信が、「尊号一件」によって徳川家斉の怒りにふれ老中を罷免されたのが、寛政五年(1793)。
 蔦重が東洲斎写楽をデビューさせたのが、寛政六年(1794)。
 

 引き続き「第三章 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す」から、写楽と同じ寛政六年に、蔦重がデビューさせた絵師のこと。

 狂歌絵本『柳の糸』の挿絵を任せたのが、後の葛飾北斎だった。

 北斎は、宝暦十年(1760)に江戸は本所割下水で生まれた。父親は幕府御用の鏡師中島伊勢とも川村氏ともいうが、あまりよくわからない。時太郎と名付けられた六歳の頃から、好んでモノのかたちを描くようになり、十九歳のとき浮世絵師・勝川春章の弟子となり、翌年から勝川春朗と名のって絵師人生をスタートさせた。

 蔦重の十歳年下。

 ちなみに、本所割下水は、落語では『名人長二』の主人公指物師長二が住んでいたし、『化け物つかい』の、人使いの荒い主人の家があった場所でもある。
 
 そんなことから、北斎が落語の中の住人に思えてくるのであった。

 北斎はとにかく研究熱心で、やがて自派の流儀だけでは満足できなくなり、片っ端から他派の技法や西洋の遠近法などを学んで作品に取り入れはじめた。
 こうした態度が兄弟子のひんしゅくを買ったようで、三十代半ばで勝川派を破門になってしまった。そこで装飾画風の俵屋一派に入り、二代目俵屋宗理(そうり)と名のって肉筆画を中心に仕事することになった。

 蔦重は、北斎が破門になったばかりの時期に、彼を登用した。

 しかし、売れ行きは上がらず、二人の関係は、それっきりになった。

 北斎にとっては屈辱的な経験だったかもしれない。しかし、そうした失敗があったればこそ、彼はのちに大家になったのだと思う。そんな北斎の後半生については、後に詳しく紹介するつもりだ。
 ともあれ、処罰されてからも、重三郎はさまざまなジャンルに手を広げつつ、出版界に盤石な地位を築きつつあった。
 野心家の蔦屋重三郎のことだ、おそらくさまざまな企画を胸に秘めており、それを実現するため、多くの作家や絵師とタッグを組んで、世間をあっと言わせ、大いに儲け、吉原を復権させるつもりだったことだろう。
 しかしながら、思いもしない病魔が、四十七歳の重三郎に襲いかかった。


 その病の正体などは、「べらぼう」最終回で明かされるだろうが、本シリーズでも次回。


 今日は会社は休み。

 午前中、血圧の処方箋をもらうのと、胃カメラの予約をするため、自宅から徒歩5分のかかりつけ内科へ。

 私は、マイナンバーを作っていないので「資格確認書」(かく、かく、とダブっていて実に野暮)だ。

 高齢(私より)の女性が、マイナンバーの顔認証をしているのだが、なかなか認証できないので、事務の人が手伝っていた。

 歯科医でもぼやいていたが、スマホのマイナンバーの認証のために、新たに機器を用意する必要がある。

 あらためて、マイナンバーカードは、いったい誰のため、と思う。

 発行が1億枚を超えても、利用者は三割ほど。

 私は、ぎりぎりまで作るつもりなし。
 正直なところ、廃止して欲しいと、今も思っている。

 G7の国で、IDカードと健康保険証を紐づけている国は、日本だけである。

 ちなみにドイツで導入しないのは、ナチスが番号で収容所の人々を管理していた負の歴史も影響している。
 また、ドイツでは一つの番号でさまざまな情報をひも付けることに対し、漏れた場合に思想信条などが丸裸にされるとの危惧は根強いのだ。

 当然だと思う。

 歴史に学ぶ国と、学べない国がある。

 歴史に学べば、防衛費を拙速に増額しGNP費2%越えさせる、なんてことは出来ないはずなのだが、困ったものだ。

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by kogotokoubei | 2025-12-08 12:54 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛