河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(46)
2025年 12月 01日

河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)
河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の四十六回目。
同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。
副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。
<目次>
□はじめに
□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり
□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨
□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す
□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝
□おわりに
いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。

杉浦日向子『江戸へようこそ』

鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。
翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。
平賀源内が亡くなったのは、安永八年。
“天明の浅間焼け”と言われる浅間山の大噴火があったのが天明三年(1783)。
重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのも、天明三年。
田沼意次の息子意知が城中で佐藤政言に斬られたのが天明四年(1784)。
十代将軍家治が亡くなり、田沼意次が老中の職を辞すのが天明六年(1786)。
恋川春町が亡くなったのが、寛政元年(1789)の七月七日。
滝沢馬琴が山東京伝を訪ねたのが寛政二年(1790)。
歌麿が美人大首絵で人気を博したのが、寛政二年から寛政三年(1791)。
松平定信を怒らせて山東京伝が手鎖五十日、蔦重が財産の半分を没収されたのが、寛政三年。
松平定信が、「尊号一件」によって徳川家斉の怒りにふれ老中を罷免されたのが、寛政五年(1793)。
蔦重が東洲斎写楽をデビューさせたのが、寛政六年(1794)。
引き続き「第三章 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す」から、写楽のこと。
「べらぼう」では、謎の多い写楽のことを、ユニークな解釈で描いていた。
敵の敵は味方と手を組んだ松平定信や長谷川平蔵と蔦重。
その敵は、十一代将軍家斉の父、一橋治済。
田沼意次や平賀源内という蔦重が慕っていた人物を貶めたのが治済と、蔦重は思っていた。
蔦重は、その話に乗った。
そこで、平賀源内が生存しているという風聞を広めるための戦術の一つが、蔦重を取り巻く面々と一緒に作り上げた、写楽。
昨夜は、その作風を仕上げたのが歌麿であることが描かれていた。
そして、曽我祭の日。町は賑わい、芝居小屋の人々が祝儀のまんじゅうを配り歩く。
定信や平蔵が、芝居小屋が源内を匿っているとして治済を誘い出そうとしたものの、治済に悟られ、仕返しに手下の者に毒饅頭を仕込まれる、という筋書きだった。
そして、ラストには、なんともミステリアスな人物が登場していた。
森下佳子は、「影武者」的な味付けも加えていたのだろうか。
さて、写楽の正体については、たしかに歌麿説も北斎説も一九説もあれば蔦重説もあるが、他にもあることをご紹介。
さて、現在最も有力なのは斎藤十郎兵衛説(さいとうじゅうろべい)である。
江戸時代の『増補浮世絵類考』(浮世絵師の人物辞典)に「斎藤十郎兵衛」「阿洲(あしゅう)侯の能役者」と明記されているのだ。
阿洲侯とは、阿波徳島藩主の蜂須賀氏のことである。
近年の研究によって、斎藤十郎兵衛が実在の人物であることはわかっている。
十郎兵衛は、藩に仕える能役者ということだが、身分としては武士になる。当時、寛政の改革によって「武士は、本分以外の行動は慎むように」と通達されており、多くの武家出身の戯作者や絵師が活動を自粛したことは、前に述べたとおりである。
つまり、武士が浮世絵を描く行為は幕府の禁制に触れるため、あえて武士身分を隠すため、写楽は正体不明の絵師になったのかもしれない。
とはいえ、これほど迫力のある役者の大首絵を描けたのは、やはり写楽が演技に精通した役者だったからであり、どの一瞬を切り取ればいいかがわかっていたからだというのだ。
本書では書かれていないことを補足する。
『増補浮世絵類考』を書いたのは、斎藤月岑。
彼は、は何を根拠にこれを記述したかというと、『浮世絵類考』の写本の一部に 「写楽は阿州の士にて斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話なり」という記載がある。
そして、栄松斎長喜は喜多川歌麿と同じく鳥山石燕の門下で、絵は喜多川歌麿の影響を受けていた。
そして、長喜は写楽と同じく蔦屋重三郎が見出した人物とされている。
よって、長喜の話は、かなり信憑性が高いと思われる。
引用を続ける。
そんな写楽=斎藤十郎兵衛説を補強する推論がある。
写楽の号である「東」「洲」「斎」の三つの漢字を「斎」「東」「洲」と並べ替える。すると「さい」「とう」「しゅう」と読める。これを「さいとうじゅう」、すなわち「斎藤十」と考え、斎藤十郎兵衛こそが東洲斎写楽ではないかというのである。
斎藤十郎兵衛が実在したことは裏付けがとれている。
たとえば、能役者の公式名簿である『猿楽分限帖』や能役者の伝記『重修猿楽伝記』に、斎藤十郎兵衛の記載があることが確認されている。
また、江戸八丁堀の阿洲侯の敷地内に住んでいたこと、文政三年(1820)に五十八歳で亡くなったことが、埼玉越谷にある法光寺の過去帳に残っていた。
Wikipedia「東洲斎写楽」
よって、「東洲」は、江戸の東を指すこともあるので、八丁堀に住んでいたから東洲とつけた、という説もある。
ということで、現在では、写楽=斎藤十郎兵衛説が、有力となっている。
ともあれ、写楽の役者絵は、残念ながら、蔦重の思いとは反してヒットすることはなかった。
それは、デフォルメが過ぎて、役者本人が怒ったとか、役者のファンも、もっと美男、美女に描いて欲しかったなどが指摘されている。
しかし、写楽再評価の波は、海外からやって来た。
写楽が表舞台から消えてからおよそ百年後、ドイツ人美術研究家であるユリウス・クルトが写楽の研究本を刊行した。彼は本の中で多くの写楽作品を紹介し、写楽は役者の個性までも書き込んだ絵師であると称賛した。そしてこの本が逆輸入される形で、日本における写楽の再評価が一気に進むことになった。
蔦屋重三郎の写楽プロデュース作戦は、百年以上早かったのである。
1870年生まれのユリウス・クルトは、明治四十年(1907)に『Utamaro(歌麿)』、明治四十三年(1910)に『Harunobu(春信)』、同じ明治四十三年に『SHARAKU(写楽)』を著し、浮世絵研究科として知られている。
Wikipedia「東洲斎写楽」から、「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」を拝借。

阿州侯お抱えの能役者、斎藤十郎兵衛、この人も十分にドラマ、あるいは映画の素材になりそうに思う。
なお、写楽研究家でもあったフランキー堺は、亡くなる前年1995年に、自分は蔦重を演じ、写楽を真田広之が演じる映画「写楽」を企画した。
監督は篠田正浩。
この映画は、フランキーが川島雄三監督の『幕末太陽傳』に出演した際、東洲斎写楽の映画『寛政太陽傳』を作ろうと川島と約束していたことに始まる。だが製作前に川島が死去したため、フランキーは俳優業の傍ら写楽の研究を続けて本作を製作したのだった。
この映画の写楽は、十郎兵衛と名のってはいたのだが、彼は大道芸人という設定。
藩お抱えの能役者ではなかった。
寛政の改革を機に、能役者の副業であった絵師に一時集中し、短期間で数十作の役者絵をものにした後、斎藤重四郎が58歳まで生きた半生がどんなものであったのかは推測するしかないが、きっと自分が写楽であることをひた隠しにしていたと察する。そこに、どんなドラマがあったかは、大いに興味深い。
創作意欲を高める人物だと思うのだが、誰か新たな「写楽」作品を映像化してくれないものか。
次回は、同じ寛政六年に蔦重がデビューさせた、あの絵師について。
