河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(45)
2025年 11月 29日

河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)
河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の四十五回目。
同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。
副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。
<目次>
□はじめに
□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり
□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨
□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す
□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝
□おわりに
いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。

杉浦日向子『江戸へようこそ』

鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。
翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。
平賀源内が亡くなったのは、安永八年。
“天明の浅間焼け”と言われる浅間山の大噴火があったのが天明三年(1783)。
重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのも、天明三年。
田沼意次の息子意知が城中で佐藤政言に斬られたのが天明四年(1784)。
十代将軍家治が亡くなり、田沼意次が老中の職を辞すのが天明六年(1786)。
恋川春町が亡くなったのが、寛政元年(1789)の七月七日。
滝沢馬琴が山東京伝を訪ねたのが寛政二年(1790)。
松平定信を怒らせて山東京伝が手鎖五十日、蔦重が財産の半分を没収されたのが、寛政三年(1791)。
松平定信が、「尊号一件」によって徳川家斉の怒りにふれ老中を罷免されたのが、寛政五年(1793)。
引き続き「第三章 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す」から、その翌寛政六年に蔦重によって登場した絵師について。
それは、写楽。
歌麿については、後日、また触れることにする。
歌麿も、その生い立ちには詳しい記録がないのだが、写楽はそれ以上に謎の人物。
また、写楽は、ゴッホに似ている。
彼の作品は、活躍している時期に決して高く評価されたわけではない、という点においてである。
そのことは、たぶん、この次の記事でご紹介することになる。
では、引用する。
歌麿に続いてさらに重三郎は全く無名の新人絵師を使って大型企画を打ち出した。その絵師とは写楽である。寛政六年(1794)五月に彗星のごとく現れたかと思うと、写楽はすさまじい速さで作品を発表していった。
たった十カ月半のあいだに、なんと百四十以上もの浮世絵を刊行したのだ。
これほどのスピードで、一人の絵師が新作を世に送り続けたためしはない。しかも、結果的には登場から一年にも満たない短期間で写楽は筆を折ってしまった。その浮世絵は上質の紙をつかった雲母摺の贅沢な仕様だった。ある意味、歌麿の美人画を上回る重三郎の一世一代の大勝負だったのではないかと思う。
しかし、写楽の作品は人気が上がらず、なかなか売り上げが伸びなかった。
当時、浮世絵の人気のテーマは、美人画と役者絵。
歌麿で美人画のヒットを飛ばした蔦重だが、役者絵にはライバルの版元が多かった。
そこで、思い切ったデフオルメの個性的な役者絵を描く写楽に、蔦重は賭けたと思われる。
しかし、この賭けは、外れた。
蔦重が大きな投資をしたものの売れないことで、いわば、経営判断の結果、写楽が姿を消したと察せられる。
後世、その写楽のブームとなった。
しかし、その正体は、謎なのである。
ともかく活躍期間が短いので、いつ生まれていつ亡くなったのか、素性も何もわからない。ある日、忽然として姿を消してしまったのだ。まさに浮世絵史上最大のミステリーである。
写楽の正体については、いくつか説がある。
本書では、歌麿説、北斎説などもあったと紹介している。
ちなみに、NHKの『歴史探偵』で2008年にギリシャのコルフ島で見つかった写楽の肉筆画を分析した結果、独特な線の描き方が見て取れた。もし歌麿や北斎の肉筆画に同じ線があれば、同一人物が描いたという可能性が高いのだが、残念ながら同じような線は見受けられなかった。
また、重三郎本人が写楽ではないか、と推測する説もあった。
しかし、戯作の文才はあっても、あれだけの絵を描くとするには、無理がある。
本書著者は、ある発見をする。
先日、たまたま現在の東京都中央区の住吉神社(佃1ノ1ノ14)を訪れた。佃島の鎮守で、正保三年(1646)に佃島の住人が故郷摂津国(せっつのくに)の住吉神社から分霊して創建したと伝えられる。神社を訪れたさい、境内で面白いものを発見した。
手水所の手前に、比較的新しい石柱がある。建立者は六代目歌川豊国とあり、「東洲斎寫楽終焉ノ地」と刻まれているのだ。どうやら、数ある写楽の正体の諸説の一つとして、佃島没説があるようだ。この地を来訪して初めて知った。石柱には「寛政九年七月七日」とちゃんと死んだ日まで彫られており、「この人、両足指六本なので庄六となり、それが転じて画号写楽となる。職業は欄間の彫師、後に二代目下駄屋甚兵衛となる」と刻まれている。庄六(しょうろく)が、写楽(シャラク)となったなんて、ずしぶんシャレた説である。
あくまで、諸説の一つ。
なお、落語の『佃祭』については、ブログ開始してすぐの頃に記事を書いたので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2008年8月9日のブログ
NHK大河「べらぼう」では、先週は、写楽は、蔦重のアイデアで彼を取り巻く戯作者や絵師による共同作業での架空の人物、そして、明日は写楽=歌麿説という脚本のようだ。
次回は、写楽の正体について、現在、もっとも信憑性が高いとされる説などについて。
