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河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(43)


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河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)

 河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の四十三回目。

 同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。
 副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。

 <目次>
□はじめに
□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり
□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨
□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す
□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝
□おわりに

 いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。
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杉浦日向子『江戸へようこそ』

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 鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。
 翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。
 平賀源内が亡くなったのは、安永八年。
 “天明の浅間焼け”と言われる浅間山の大噴火があったのが天明三年(1783)。
 重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのも、天明三年。
 田沼意次の息子意知が城中で佐藤政言に斬られたのが天明四年(1784)。
 十代将軍家治が亡くなり、田沼意次が老中の職を辞すのが天明六年(1786)。
 恋川春町が亡くなったのが、寛政元年(1789)の七月七日。
 滝沢馬琴が山東京伝を訪ねたのが寛政二年(1790)。
 松平定信を怒らせて山東京伝が手鎖五十日、蔦重が財産の半分を没収されたのが、寛政三年(1791)。
 松平定信が、「尊号一件」によって徳川家斉の怒りにふれ老中を罷免されたのが、寛政五年(1793)。
 

 さて、今回も「第三章 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す」から。

 前の記事では、歌麿が挿絵を描いていた唐来参和のことや、歌麿と蔦重との仲介役といえる北尾重政のことが中心だったので、あらためて歌麿のこと。

 「べらぼう」でも紹介されたように、歌麿が大首絵を描く前、江戸の素人娘を題材にした美人画を描いた。

 引用。

 代表的な女性として、富本節の名取(師匠)の芸者富本豊雛(とよひな)、浅草随身門(ずいしんもん)脇の水茶屋につとめる難波屋おきた、江戸両国の煎餅屋の娘・高島おひさがいる。
 翌寛政五年頃には、歌麿はこの三美女をまとめて一枚の浮世絵に描き込んでいる。それが有名な「当時三美人(寛政の三美人)」であった。おそらく読者も目にしたことがあるはずだ。

 Wikipedia「寛政三美人」より。
Wikipedia「寛政三美人」


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 左は高島屋おひさ、上は富本豊雛、右下は難波屋おきた。

 「べらぼう」でも描かれたように、彼女たちがいる水茶屋、煎餅屋には、人だかりができた。

 実は、素人の美人画は、歌麿が初めてではない。

 蔦重が版元として独立した明和五年前後、絵師鈴木春信による笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働くお仙の美人画が大ブームとなっていた。

 鍵屋には客が殺到し、「水茶屋の娘の顔でくだす腹」という川柳がある。

 この加熱ぶりを危惧した町奉行は、明和六年、素人の娘を題材とし、本名を記した出版物の刊行を禁止した。

 また、翌明和七年にお仙が店から姿を消し、また鈴木春信が死去したため、ブームは終り、再び美人画は遊女中心の時代に戻っていった。

 こうしておよそ二十年の月日が過ぎ、再び蔦屋重三郎が素人娘の名を刻んだ美人画を堂々と出版したのである。ある意味、これは御上に対する挑発行為のようにう思える。まだ素人娘を題材とした刊行物の禁止条項が撤廃されていたわかではなかった。しかも重三郎は去年処罰されたばかり。にもかかわらず、素人美人画を出版するとは、何とも不敵な人物である。
 案の定、寛政五年(1793)、当局は美人画に実在する娘の名前を入れることを許さないと通達した。だが、そんなことぐらいで評判娘の刊行を中断するような重三郎ではない。たとえば「当時三美人(寛政の三美人」の初版には、娘の実名が入っていた。ところが、第二版以降は名前は消されたが、着物や団扇の家紋によって本人が特定できるようになっているのだ。禁令をあの手この手でくぐり抜けながら、しぶとく商売を続けていこうとする蔦屋重三郎の商魂はまこととにたくましい。

 蔦重が、禁じられていた素人の美人画を、あの手この手で続けようとしたのは、必ずしも儲けのためではなかったと思う。

 彼には、確固として権力に屈服しない、いわば、ジャーナリスト精神が脈々と息づいていたのだ。

 吉原で生まれ、吉原を救うためと考え始まった蔦重の出版活動は、常に弱い者に足場がある。

 非核三原則を葬ろうとする高市好戦内閣について、中国の言い分を垂れ流すだけでなく、権力に阿ることなく、反対の意志をメディアは明確にすべきだ。


 大新聞やテレビに、蔦重の爪の垢を煎じて飲め、と言いたい。


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by kogotokoubei | 2025-11-15 11:11 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛
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