田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)より(3)
2025年 11月 12日

田部隆次著『小泉八雲』(中公文庫)
田部隆次著『小泉八雲』(副題「ラフカディオ・ヘルン」)の三回目。
初版は1980年に北星堂書店から刊行され、今年3月に中公文庫で再刊。
とはいえ、本書の「序」で著者は、この伝記の第一版は、大正三年四月、早大出版部から出た、と記している。
<目次>
□序
□故小泉八雲の著作につきて 坪内逍遥 ※「つきて」は原文のママ
□序 西田幾多郎
□小泉八雲先生を懐ふ 内ケ崎作三郎
□1 ギリシャからアイルランドへ
□2 大叔母のてもと
□3 学校生活
□4 シンシナティ
□5 ニューオーリンズ
□6 西印度、フィラデルフィア、ニューヨーク
□7 横浜から松江
□8 熊本
□9 神戸
□10 東京 その一
□11 東京 その二
□12 思い出の記 小泉節子(セツ)
□13 交際と交友
□14 人、思想、芸術
□15 ヘルンの通った道
□16 著書について
□17 余禄
□18 年譜(生涯、著作遺稿等)
□小泉八雲ー名の無き庶民の心を語り継ぐ 池田雅之
□索引
小泉節子(セツ)の「思い出の記」をご紹介したい。
適宜、関連する部分を本文からも引用することにする。
まず、「思い出の記」の冒頭から。
ヘルンが日本に参りましたのは、明治二十三年の春でございました。ついて間もなく出版会社との関係を絶ったのですから、遠い外国で頼り少ない独りぼっちとなって一時は随分困ったろうと思われます。出雲の学校へ赴任する事になりましたのは、出雲が日本で極古い国で、いろいろ神代の面影が残っているだろうと考えて、辺鄙で不便なのをも心にかけず、俸給も独り身の事であるから沢山は要らないから、赴任したようでした。
本文の「横浜から松江」からも引用する。
明治二十三年前後には多くの中学には英米の雇教師がいた。松江の中学ではヘルンは第二回の外人教師であった。この頃日本全国はまだ欧米崇拝熱の去らない時代であった。極端なる欧化熱の時代いわゆる「鹿鳴館」時代を去る事遠くなかった。コルクが落ち込んだ洋酒の空罎一本をうやうやしく奉書紙に包んだのが貴重な贈答品であったという明治の初年が、精神的に復興したような時代であった。西洋人に笑われまいというのが当時の警戒であった。英語を国語にすべしだの、欧米人と雑婚して人種を改良すべし(高島嘉右衛門)だのという説すら唱えられた時代であった。
そういう時代に、八雲は松江にやって来た。
「思い出の記」の続き。
伯耆の下市に泊って、その夜盆踊を見て大層面白かったと言いますから、米子から船で中海を通り松江の大橋の河岸につきましたのは八月の下旬でございました。その頃東京から岡山辺までは汽車がありましたが、それからさきは米子まで山また山で、泊る宿屋も実にあわれなものです。村から村で、松江に参りますと、いきなり綺麗な市街となりますので、旅人には皆眼のさめるように驚かれるのです。大橋の上に上ると東には土地の人の出雲富士と申します伯耆の大山(だいせん)が、遥かに富士山のような姿をして聳えております。大橋川がゆるゆるその方向へ流れて参ります。西の方は湖水と天とがぴったり溶けあって、静かな波の上に白帆が往来しています。小さい島があってそこには弁天橋の祠(ほこら)があって松が五、六本はえています。ヘルンはまずこの景色が気に入ったろうと思われます。
松江の人口は四万程でございました。家康公の血を引いた直政という方が参られまして、その何代か後に不昧(ふまい)公と申す殿様がありましたが、そのために家中の好みが辺鄙に似合わず、風流になったと申します。
不昧公とは、松江藩中興の祖とされ、大名茶人として名高い松平家七代藩主の松平治郷(はるさと、1751~1818年)のこと。
八雲が好きだった松江の風景には、しじみで有名な宍道湖も含まれたに違いない。
「しまね観光ナビ」から、写真を拝借。
「しまね観光ナビ」サイトの該当ページ

「ばけばけ」で、トキ(セツ)が毎朝行商で売っていたしじみも、この宍道湖でとれたもの。
そのときが、ついにヘブン(ヘルン)の女中となったのは、月給20円という破格な報酬に惹かれたことは間違いないが、当時八雲は月給100円を得ていたとされる。
島根県では、県知事の次に高い報酬だったらしい。
現在の価値で計算するのは、諸説あるが、当時の物価から考え、ざっと1円=3万円とし、100円は300万円。
トキが受け取る20円は、60万円となる。
だからこそ、トキは、没落し物乞いまでする雨清水家の実母、実弟を助けようとするのが・・・・・・。
次回は、八雲を支援した松江の人物などについて。
