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河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(42)


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河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)

 河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の四十二回目。

 同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。
 副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。

 <目次>
□はじめに
□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり
□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨
□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す
□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝
□おわりに

 いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。
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杉浦日向子『江戸へようこそ』

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 鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。
 翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。
 平賀源内が亡くなったのは、安永八年。
 “天明の浅間焼け”と言われる浅間山の大噴火があったのが天明三年(1783)。
 重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのも、天明三年。
 田沼意次の息子意知が城中で佐藤政言に斬られたのが天明四年(1784)。
 十代将軍家治が亡くなり、田沼意次が老中の職を辞すのが天明六年(1786)。
 恋川春町が亡くなったのが、寛政元年(1789)の七月七日。
 滝沢馬琴が山東京伝を訪ねたのが寛政二年(1790)。
 松平定信を怒らせて山東京伝が手鎖五十日、蔦重が財産の半分を没収されたのが、寛政三年(1791)。
 松平定信が、「尊号一件」によって徳川家斉に怒りにふれ老中を罷免されたのが、寛政五年(1793)。
 

 引き続き、「第三章 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す」から。

 前の記事で、歌麿が耕書堂の専属の戯作者であり狂歌師であった唐来参和と仕事をしたと紹介した。

 唐来参和、ということで、ある芸人さんのことを紹介しておきたい。


 井上ひさし作『戯作者銘々伝』という短編集の中の一編を原作とした小沢昭一さんのひとり舞台が『唐来参和』であった。

 これが、Amazonから拝借した同舞台DVDのジャケット。
『唐来参和』DVD

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 残念ながら、生で鑑賞する機会はなかった。

 元『東京かわら版』編集人の大友浩さんが、紀伊国屋ホールの舞台について『東京かわら版』で書いた記事を、ブログで紹介されている。
 2002年から2003年にかけて同誌に掲載された内容。実に高くその舞台を評価されている。
 ご興味にある方は、ぜひご確認のほどを。
ブログ「芸の不思議、人の不思議」の該当記事

 大友浩さんは、以前、同ブログ記事に引用のご了解をいただきたくメッセージを送ったところご快諾したでき、拙ブログにもコメントを頂戴したことがある。
 あの頃は、寄席にも落語会にも頻繁に出かけ、記事を書いたものだ。ずいぶん昔のことに思える。

 さて本書では、唐来参和について、そのヒット作のことや、著書で参和について馬琴がどう記しているかを紹介しているが、割愛。

 歌麿に話を戻すが、安永十年の志水燕十著『身貌大通神略縁起(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)』の刊記(奥付)に「画工 忍岡哥麿)とあり、この仕事で初めて歌麿は、画号を豊章から歌麿に改めたといわれている。
 ところで、そもそもなぜ蔦屋重三郎は、歌麿と仕事をするようになったのだろうか。
 おそらくそれは、北尾重政の推挙や紹介があったのだと思われる。
 じつは蔦屋重三郎と最も親しかった絵師は喜多川歌麿ではなく、北尾重政であった。

 「べらぼう」でも描かれたように、蔦重が最初に刊行したのは、北尾重政の『一目千本 華すまひ』だった。

 山東京伝も北尾政演として重政の弟子だった。

 喜多川歌麿も重政の弟子同然だったという記録があるので、重政のつながりで歌麿は重三郎を知ることになったものと考えられる。
 じつは重三郎にとって北尾重政は大恩人といえた。若手を紹介してくれるだけでなく、重政自身が長年売れっ子の絵師であり、その「理性的で正確な筆致は世に大いに迎え入れられ」、「寛政期になっても重政が絵師の筆頭にあげられる状況」(鈴木俊幸著『新版 蔦屋重三郎』)だった。そんな重政は生涯にわたって重三郎の耕書堂の仕事を引き受け続けてくれたのである。「画工名の記載のない蔦屋版黄表紙のほとんども重政の手になる」(前掲書)と考えられており、重三郎の事業拡大に大いに貢献してくれたことだろう。重政は重三郎より十歳以上も先輩だったが、二人は心底気があったのかもしれない。
 もともと北尾重政は、江戸小伝馬町一丁目で本屋を営む須原屋三郎兵衛の長子として生まれた。父の三郎兵衛は、江戸日本橋通一丁目に店を構える書物問屋の老舗・須原屋茂兵衛の雇い人であったが、能力があったのだろう、やがてのれん分けで独立したといわれる。

 重政は、長男でありながら、商売が嫌いで、稼業を弟に譲った。

 子供の頃から、本に囲まれて育った重政は、絵師の道に進んだ。

 とはいえ、特定の師匠がいたわけではなく、独学だったというから驚く。

 「べらぼう」で橋本淳が演じる北尾重政は、蔦重にとって、実に重要な絵師だった。

 Wikipedia「北尾重政」から引用。
Wikipedia「北尾重政」

重政は次の天明期に美人画において活躍する鳥居清長に影響を与え、若き頃の喜多川歌麿を弟子のようにその面倒を見ている。また教養のある重政のもとには北尾政演、北尾政美、窪俊満、式上亭柳郊のような文学的教養のある門人が集まった。大田南畝は『浮世絵類考』で「近年の名人なり。重政没してより浮世絵の風鄙しくなりたり」と高く評価している。喜多川歌麿や葛飾北斎などにも影響を与えている。


 重政がいたからこそ、歌麿は腕を磨くことができ、蔦重との縁ができたのである。


 「べらぼう」で、遊女の評判を「生け花」に見立てて描いた『一目千本』が登場したのは、第三回だった。
 今では重政の登場がめっきり少なくなったので、お忘れの方も多いかもしれない。
 しかし、歌麿のことを紹介するなら北尾重政のことは外せないと思ったので、今回は、このような内容になった次第。


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by kogotokoubei | 2025-11-03 16:16 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛
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