河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(39)
2025年 10月 30日

河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)
河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の三十九回目。
同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。
副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。
<目次>
□はじめに
□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり
□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨
□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す
□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝
□おわりに
いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。

杉浦日向子『江戸へようこそ』

鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。
翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。
平賀源内が亡くなったのは、安永八年。
“天明の浅間焼け”と言われる浅間山の大噴火があったのが天明三年(1783)。
重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのも、天明三年。
田沼意次の息子意知が城中で佐藤政言に斬られたのが天明四年(1784)。
十代将軍家治が亡くなり、田沼意次が老中の職を辞すのが天明六年(1786)。
恋川春町が亡くなったのが、寛政元年(1789)の七月七日。
滝沢馬琴が山東京伝を訪ねたのが寛政二年(1790)。
松平定信を怒らせて山東京伝が手鎖五十日、蔦重が財産の半分を没収されたのが、寛政三年(1791)。
今回は、「第三章 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す」に進む。
冒頭部分から引用。
松平定信が失脚するも、統制はしばらく続く
寛政元年(1789)、尊号一件が起こった。
朝廷が武家伝奏(ぶけでんそう、朝廷と幕府をつなぐ役職。公家が就任)を通じて、「光格(こうかく)天皇の実父である閑院宮典仁(かんいんのみなすけひと)親王に太上天皇(上皇)の尊号を宣下したい」と幕府に求めてきたのだ。
けれど典仁親王は、皇位についたことがなかった。急死した後桃園(ごももぞの)天皇に跡継ぎがおらず、天皇家が絶えそうになったため、急きょ、典仁親王の子が即位して光格天皇となったのだ。
だから、天皇を即位した人に与える称号である上皇の尊号を、典仁親王に宣下するのはおかしわけだ。このため幕府は、その申請を認めなかった。
ところが、である。なんと再度、武家伝奏が同じことを要求してきたのだ。
すると松平定信は、「武家伝奏というのは、武家側に立つべき役職のはずではないか」と激怒し、武家伝奏の正親町公明(おおぎまちきんあき)を処罰したのである。
これによって、朝廷と幕府の関係はにわかに悪化することになった。
定信が断固たる処置をとったのには、理由があった。実は、将軍家斉に対する牽制だったのだ。
親思いの十一代将軍家斉は、将軍経験者ではない父の一橋治済(はるさだ)を大御所(将軍を引退した人の呼び名)にしたいと熱望していた。
定信としては、そうした例外を認めたくなかった。そこで、家斉の企みを防ぐため、強い調子で朝廷の要望をはねつけたというわけだ。
こうして尊号一件によって、小具家斉と老中定信の間も険悪な状況になった。そしてついに、家斉が定信にキレてしまったのである。
Wikipedia「光格天皇」から、天皇家系図の一部を拝借。
Wikipedia「光格天皇」

閑院宮典仁親王が東山天皇の孫、光格天皇は東山天皇の曾孫にあたる。
典仁親王は、天皇に即位していない。
慶光天皇という称号は、明治になってから贈られた。
吉宗と治済、家斉の関係も、結構似ている。
こうなっている。
徳川吉宗(八代将軍)
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徳川家重(長男、九代将軍) 一橋 宗尹(むねただ、四男)※一橋家初代当主
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徳川家治(家重の長男、十代将軍) 一橋治済(はるさだ)※一橋家二代当主
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徳川家斉(治忠の長男、十一代将軍)
という関係。
治済が吉宗の孫、家斉は曾孫だ。
Wikipedia「徳川家斉」から引用。
Wikipedia「徳川家斉」
徳川家治の世嗣・家基の急死後、家治に他に男子がおらず、また家治の弟である清水重好も子供がいなかったことから、将軍継嗣問題が発生する。家治は安永10年(1781年)2月に家基の3回忌法要を済ませた後、4月に将軍継嗣となるべき養子の人選係を老中の田沼意次、若年寄の酒井忠休、留守居の依田政次の3名に命じた。この結果、閏5月18日に御三卿の一橋徳川家の徳川治済の嫡子である豊千代に決定し、11月2日に豊千代は家斉と改名し、天明2年(1782年)4月2日に従二位権大納言に叙任された。
十五歳の将軍誕生だった。
家斉を将軍にするため、治済と意次は協力したようだが、最後は、家斉が意次を追い出す格好となった。
そして、意次の後の老中首座となったのが松平定信だが、父治済を大御所とさせないため、家斉と定信の関係は険悪になった。
本書では、『続徳川実紀』から当時のことを紹介しており、それによれば、実父を大御所にしない定信に対し、家斉が刀を抜いて切り捨てようとした、と記されているらしい。
このとき側にいた平岡頼長(よりなが)は、とっさに見事な機転を利かせた。
素知らぬふりをして「定信よ。上様が御刀を下賜されると言うておるぞ。さあ、早う拝領せよ」と告げたのだ。
これで我に返った家斉は、手にした刀を捨てて奥に入ってしまった。
一方、定信のほうも頼長の演技に便乗して、その刀を拾い上げて拝領し、そのまま退出したという。
これは「絵になる」ドラマチックな場面なので、「べらぼう」でも登場するに違いない。
その後も家斉の感情は収まらず、定信は出張中に老中首座を罷免されてしまった。
寛政の改革の終焉。
寛政五年(1793)のことだった。
とはいえ、定信失脚後も、寛政の改革の流れは踏襲され、質素倹約を旨とする政策が続いた。
次回は、歌麿のこと。
明後日から、11月。
2日日曜は、旧暦9月13日、「十三夜」だ。
居残り会ラインでこの話題をふったら、樋口一葉という返信。
さすが、居残り会の皆さんは、レベルが高い(^^)
