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河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(38)


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河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)

 河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の三十八回目。

 同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。
 副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。

 <目次>
□はじめに
□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり
□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨
□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す
□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝
□おわりに

 いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。
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杉浦日向子『江戸へようこそ』

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 鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。
 翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。
 平賀源内が亡くなったのは、安永八年。
 “天明の浅間焼け”と言われる浅間山の大噴火があったのが天明三年(1783)。
 重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのも、天明三年。
 田沼意次の息子意知が城中で佐藤政言に斬られたのが天明四年(1784)。
 十代将軍家治が亡くなり、田沼意次が老中の職を辞すのが天明六年(1786)。
 恋川春町が亡くなったのが、寛政元年(1789)の七月七日。
 滝沢馬琴が山東京伝を訪ねたのが寛政二年(1790)。
 松平定信を怒らせて山東京伝が手鎖五十日、蔦重が財産の半分を没収されたのが、寛政三年(1791)。

 引き続き、「第二章 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨」から、馬琴の他に蔦重が目をかけた戯作者のこと。


 重三郎に世話になって後に才能を開花させた戯作者は、馬琴だけだはない。享和二年(1802)に弥次喜多珍道中で有名な『東海道中膝栗毛』を出して大ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)もその一人である。十返舎一九は本名を重田貞一(しげたさだかつ)といい、明和二年(1765)に駿河国府中に生まれたといわれる。父母の名は全くわかっていない。一説には八王子千人同心(武蔵国多摩に散在する半農半士)の家柄だという。二十代前半に大坂町奉行の小田切直年に仕えて大坂にいたが、後に辞して材木商の娘婿になったものの、やがて離縁して各地を流浪したのち江戸に来て、寛政六年から蔦屋重三郎の食客となったという。大坂にいた頃から戯作活動をしていたようで、寛政元年(1789)初演の浄瑠璃『木下蔭狭間合戦(このしたかげまがっせn)』は、若竹笛躬(わかたけふえみ)と並木千柳(なみきせんりゅう)とともに一九が合作したものだといわれている。このときは近松余七(ちかまるよしち)と称していた。

 一九は馬琴の二歳年上になる。
 
 蔦重からは十五歳年下。

 一九が蔦重に耕書堂で働くようになったのが寛政六年だかた、彼が二十九歳の時。
 いったい何の役割だったのか。

 耕書堂では、錦絵に用いる奉書紙に絵の具がにじまない液体を塗る仕事をしていたが、翌寛政七年になると、重三郎は早くも一九に『心学時計草』など三冊の黄表紙を書かせている。このおり一九は、文章だけでなく本の挿絵も描いた。もともと『心学時計草』の構想は石川雅望によるもので、雅望が一九を用いるよう重三郎に勧めたのだと馬琴は語る。ちなみに『心学時計草』という書名は、先述のとおり石田梅岩が始めた心学をもじったもので、実際には吉原の昼夜十二時の出来事を綴った内容だった。出版統制令にひっかからぬように『心学』と題したわけだが、重三郎だけでなく、この時期、同じく「心学」と題した草双紙が多数出版された。だが、その嚆矢は一九の『心学時計』なのだと馬琴は言う。

 蔦重は、寛政九年に亡くなっているので、一九との付き合いは三年ほどだった。

 蔦重が亡くなって五年後に、『東海道中膝栗毛』が大ヒットするのだが、もし重三郎に見出されていなければ、一九の活躍もありえなかったかもしれない。

 『東海道中膝栗毛』は、売れに売れ、一九はそのシリーズを二十年間に渡り書き続けた。

 その版元は村田屋治郎兵衛(じろべえ)だったが、重三郎が存命だったなら、耕書堂から出版されていたに違いない。


 なお、出版統制令により、蔦重が身上半減の罪状となったとされたというのは、馬琴の記録が元になっているのだが、近年では、それは間違いではないかと言われている。
 
 幕府の見せしめとして処罰されたのは事実だが、罰金刑で済んだというのが本当のようだ。

 いずれにしても、重三郎が、処罰の後も精力的に出版活動を続けたのは「べらぼう」が描く通り。

 その時の重要な作家が、まさしく、歌麿であった。

 次回は、「第三章 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す」に進む。

 今日は、会社は休み。

 ユウを膝に乗せて、MLBワールドシリーズ第四戦を見ていた。

 大谷は悪くなかった。
 9打席全て出塁し、あれほど活躍した後に、よくあそこまで投げられるものだ。
 ゲレーロへの失投が悔やまれるが、十分任務を果たした。

 いかんせん、大谷を含めてドジャーズがブルージェイズ投手陣を打てなかった。

 6時間39分、延長18回を戦った後だ、疲れがないと言えば嘘になるが、ブルージェイズの選手は若々しかった。


 ということで、スターティングメンバ―の年齢を調べてみた。

⚾ドジャース
1.大谷  31
2.ベッツ 33
3.フリーマン 36
4.スミス 30
5.T.ヘルナンデス 33
6.マンシー 35
7.エドマン 30
8.キケ・ヘルナンデス 34
9.パヘス 24
平均 31.78

⚾ブルージェイズ
1.ルークス 31
2.ゲレーロ Jr. 26
3.ビシェット 27
4.バージャー 25
5.カーク 26
6.バーショ 29
7.クレメント 29
8.ヒメネス 27
9.カイラー・ファルファ 30
平均 27.78

 ドジャースが、8人が三十歳台で、二十代はパヘスのみ。
 ブルージェイズは、30歳、31歳が各一人で、七人が二十代。

 平均年齢は4歳違う。

 精神力の問題もあるが、やはり、若いブルージェイズのメンバーの方が疲労の快復力があるだろう。


 明日、スネルに期待したい。

 そして、山本、大谷、佐々木がトロントで満員の観客を静まらせるのが楽しみだ。


 昨日の将棋王座戦最終局、挑戦者伊藤叡王の快勝と言えるだろう。

 叡王になった時に、藤井・伊藤時代の到来か、と書いたが、まさに、同じ年齢のこの二人の並び立つ時代が訪れたようだ。


 どんな勝負ごとも、一人独占より、実力が拮抗したライバルが鎬を削る方が、見る方はスリリングで、楽しめる。

 ドジャーズとブルージェイズのワールドシリーズも然り。


 政治の世界は、そうなっていないのが、なんとも残念である。

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by kogotokoubei | 2025-10-29 16:16 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛
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