池田雅之著『小泉八雲』より(9)
2025年 09月 20日

池田雅之著『小泉八雲』(平凡社新書)
少し時間が空いたが、池田雅之著『小泉八雲』(副題「今、日本人に伝えたいこと」)の九回目。
本書は、8月7日に平凡社新書で初版。
著者は、八雲(ラフカディオ・ハーン)の『新編 日本の面影』や『新編 日本の怪談』の訳者として知られる。
<目次>
□はじめにー共生きのいのちを生きる
□第一章 甦る八雲の現代日本への警告
□第二章 八雲と漱石の異文化体験から学ぶ
□第三章 欧米人は八雲をどう見てきたか
□第四章 八雲の人生と文学の素地をたどる
□あとがきー日本を取り戻す
□主要参考文献一覧
□小泉八雲略年譜
今回から「第二章 八雲と漱石の異文化体験から学ぶ」に進む。
小泉八雲と夏目漱石は、異文化体験をしたことのみならず、何かと共通点がある。
「第二節 八雲と漱石ー響きあう二つの魂のゆくえ」の「八雲と漱石の因縁」から引用。
小泉八雲と夏目漱石は、さまざまな意味で因縁浅からぬものをもっています。漱石はあたかも八雲の後を追うがごとく熊本第五高等学校、次には東京帝国大学と、同じ教壇に立ったことがあります。二人の大作家が期せずして同じ経歴をたどっていたことは、はなはだ興味深いことだと思われます。
しかし後で述べるように、二人の因縁はこれに尽きるものではありません。本節では、八雲と漱石の出会わざる出会いのドラマ(本当に、二人は出会ったことがなかったようです)と、二人の作家としての魂のゆくえを辿ってみたいと思います。
八雲は私たちには小泉八雲という帰化名でなじみ深いですが、アメリカ各地で16年にも及ぶ新聞記者生活を経て日本にやってきたのは、彼が39歳の時であった1890年(明治23)年4月4日のことでした。
島根県松江中学校の英語講師を振り出しに、1891年から1894年までは熊本の第五高等学校で教えました。
一方、漱石は、八雲が熊本を去った二年後の1896年にやはり第五高等学校講師として熊本に赴任し、1900年4月まで教えています。
八雲は、その後、明治時代のジャパノロジイ(日本学)の基盤を築いたイギリス人学者バジル・ホール・チェンバレンの推挙で、東京帝国大学の英文科講師として招かれています。八雲は、1896年から解雇される1903年までのおよそ七年間を、大変評判の髙い文学講師として、東大の学生たちを指導しました。
八雲の1903年の東大講師解雇は、決して、八雲本人に何らかの非があったというわけではなく、経済的な役所の論理によるものだった。
文部省は、その当時、高給で迎えたお雇い外国人を削減しつつあり、その結果、八雲との契約が打ち切られたのである。
東京大学のサイトの「蔵出し! 文書館」に、1897(明治30年)年の卒業記念写真があり、その中に八雲が含まれている。
東京大学サイトの該当ページ
これが全体の写真。

これでは、八雲がどこにいるか分かりにくい。
サイトの文章と拡大写真。
図書館にて卒業証書授与式、三四郎池の端では集合写真が撮影されました。八雲がどこに写っているか分かりますか?写真中央には当時の総長である濱尾新、その左隣には八雲を呼び寄せた外山正一、ケーベル、フローレンツが並んでいます。八雲はというと、前列右から5番目、リースとエックの間にフロックコートの正装した姿で写っています。

少年時代の事故で左目を失明した八雲の写真の顔は、すべて右側だ。
八雲の後任のこと。
そしてこともあろうに、八雲の後釜に据えられたのが、ロンドン留学から帰ったばかりの夏目金之助こと夏目漱石、36歳でした。
八雲と漱石の年齢は、17歳も離れていましたから、当時は親子ほどの差があったと考えてよいでしょう。漱石はこの運命のいたずらをいったいどのように感じていたのでしょうか。1903年4月に八雲のポストを奪った形になった漱石も、四年後の1907年(明治40)の4月には、みずからこのポストを投げ捨てて、朝日新聞の専属作家に転身してしまいます。ここにも漱石の内に、八雲の投影を見てとることができるでしょう。
英語を教えることに嫌気がさしていた漱石は、東大講師時代に、神経衰弱を再発させてしまった。
この病気は熊本時代、ロンドン時代を通しての持病だった。
また、東大を去った理由には、学生からも慕われていた八雲への思いもあったようだ。
妻鏡子の『漱石の思い出』を本書では引用しているので紹介した。
(漱石は)望み通り熊本に帰らないで、東京にいて一高で教鞭をとることに
なりましたが、それだけでは生活にも困ろうとあって、文科大学(東京帝国
大学)の講師ということになって、小泉八雲先生のちょうど後に入ることに
なりました。どうしてそういうことになったのか、その間の消息は私には
わかりませんが、当人(漱石)ははなはだ不服でして、狩野さんや大塚さん
に抗議を持ち込んていたようです。
この一節には、八雲の後任に就いた漱石側の事情が、漱石の夫人の口を借りて明らかにされています。この時、当然のことながら、漱石は自分が微妙な立場に立たされていることを痛感していました。そして彼は、その不快感を鏡子夫人に次のようにも訴えています。
夏目の申しますのには、小泉先生は英文学の泰斗でもあり、また文豪と
しても世界に響いた偉い方でもあるのに、自分のような駆け出しの書生上
がりの者が、その後釜に据わったところでとうてい立派な講義ができる
わけでもない。また学生が満足してくれる道理もない。
漱石が八雲のことをどう思っていたのかが、この夫人の遺した書から、察することができる。
同じ異文化体験により人生の大きな転機となった二人だが、異文化への接し方、その影響は対照的だった。
それについては、次回。
