青山透子著『日航123便墜落事件 四十年の真実』より(5)
2025年 07月 26日

青山透子著『日航123便墜落事件 四十年の真実』
『日航123便墜落事件 四十年の真実』(河出書房新社、7月4日初版)の五回目。
<目 次>
□はじめに
□第一章 原点に立ち戻れ
「疑惑はここから始まった」など
□第二章 空白の三分十二秒ー炭化遺体は真実を語る
「長野県消防防災課の記録から見えたもの」など
□第三章 事件は終らないー声なき声を聴け!
「心ある元自衛官たちの調査研究」など
□おわりに
引き続き「第一章 原点に立ち戻れ」の終盤から「第二章 空白の三分十二秒ー炭化遺体は真実を語る」にかけてご紹介。
前回まで、第4エンジンが木っ端みじんになったのは、事故報告書で指摘されているような、一本のカラ松のせいなどではなく、当時上空を飛んでいたファントム戦闘機によるものと推論できることをご紹介した。
しかし、ファントム機搭載の20ミリ機関砲による機体の穴などの証拠は、墜落現場の大火災により、残っていない。
その大火災そのものに疑惑がある。
引用する。
炭化遺体が生じた理由
日航123便の墜落現場となった御巣鷹の尾根は、湿度70パーセント以上の夏山で、連日スコールが発生していた。にもかかわらず、残された遺体はカリカリに焼け焦げていた。この状況はあまりにも不自然である。まず夏の衣服は薄く簡素であり、それが燃えたとしても長時間にわたるとは考えづらい。さらに、人間の身体は水分を多く含むため生身の肉体は燃えにくい。
それとは対照的に、墜落現場ではういぐるみが燃えずにそのままの姿で残っていた)(口絵5)。通常であれば、化繊でできたぬいぐるみの方がよく燃えるはずであり、この状況は「大規模火災」では説明がつかない。当時の週刊誌ではこのぬいぐるみが現場にいくつも転がっている写真が掲載されていた。「子どもたちのお土産」として哀悼の意を込めて紹介されていたが、遺体の焼損状況については触れられていなかった。
前回もご紹介したが、これが口絵5の写真。

アサヒグラフの1985年8月30日号の写真のキャプションには、「行楽帰りに災難にあった人も多かった。ミッキーマウスやドナルドダックなど、真新しいぬいぐるみがあちこちに飛び散っていた」(13日)、と記されている。
東京ディズニーランドの開園は、二年前、1983年4月15日。
夏休み真っ只中でのディズニーランドでの思い出の品の持ち主は、遠く空の上に去ってしまった。
「あちこち」に、「真新しい」ぬいぐるみが散乱していたのが事実。
その事実と、炭化遺体とは、どうしても矛盾する。
また、湿度の高い山間部で、連日夕立が続いていた状況下で、あまりにも広範囲かつ長時間の火災は、通常では考えられない。
いくつか疑問点を整理する。
□多くの遺体が炭化していたのに、周辺のぬいぐるみや斜面の木々は燃えていなかった
□東京から大阪までの飛行のための量の燃料による長時間大規模火災は起こり得ない
□ジェット燃料使用の安全性の高いケロシン(灯油ベース)が長時間燃え続けることはない
これらに加えて、地元消防団が、現場の第一印象として、「ガソリンとタールの臭いで充満していた」と証言していた。
いったい、墜落現場で何があったのか。
「第二章 空白の三分十二秒ー炭化遺体は真実を語る」に進む。
新たな情報が登場する。
長野県消防防災課の記録から見えたもの
私の手元に、情報開示請求によって開示された長野県佐久市消防防災課による『日航機墜落事故』(1985年)という手書きの防災記録がある。
これを読むと、実に面白いことが見えてくる(図35・36)。
19:32 消防庁総務課から通報
東京発大阪行 日本航空 123便(528人乗り)が長野県佐久市に墜落
自衛隊は墜落を確認済。手配よろしく。
ここからわかることは、19時32分の段階で、すでに自衛隊が墜落を確認しており、その場所は長野県佐久市だと通報を受けている、という点である。自衛隊がこんなに早く、しかも長野県佐久市という具体的な地名を挙げていることに、今思えば不信感を抱かざるを得ない。自衛隊が墜落現場を確認済みというのは、報道とは真逆である。当然のことながらその通報を受けて、長野県佐久市の職員たちが、次々と名指された場所に急行した。役場の職員や消防などが御座山、ブドウ峠、三国峠などに出向き、「墜落の形跡なし」を確認し、報告を上げている様子が手の取るようにわかる(図37)。その一部を抜粋する。
20:21 南佐久地事所長から連絡
「川上村企画課長、南相木村宿直とも形跡、情報なし」
20:43 (長野県)知事から3県(長野、群馬、埼玉)と連絡、協調を十分
とるようとの指示。
21:35 南佐久地事所長から北相木村ブドウ峠附近を調査終了し、当村及び上野村
方面(著者注、長野県側から見て)に墜落の形跡なし。川上村、南相木村、
大滝村で三国峠に上ったところ、それぞれの村、県境及び、両津山(埼玉県)
に墜落の形跡なしとの連絡あり。
21:55 県警から奥栗生(オククリュウ)国有林と御座(オグラ)山は異常なしの
旨、連絡あり。
21:58 地域防災課から北相木村で山火事が発生しているとの情報(TV)があるが、
航空機事故との関連を確認せよとの指示あり。
22:25 南佐久地事所長から、北相木村御座山北側現地へ無線車2台を派遣。
(9:50発) 10:40現地到着予定。
22:35 県警情報、ブドウ峠に居る県警職員が御座山北斜面を視察したが墜落、火災、
ヘリの飛来の形跡なしの連絡あり。
22:44 県警から、栗生から御座山方面を見ても異常はない旨の連絡あり。
22:50 自衛隊情報を県警から以下のとおり受ける。北緯36度02分、東経138度41分
が墜落現場である。
(著者注、上野村は、群馬県の最西南端に位置し、役場地点で東経138度47分、
北緯36度4分、標高は511メートルにある)
23:55 県警から御座山の北、西斜面を検索するも異常なしの旨連絡あり。
これを見ると、22時50分の段階で、すでに自衛隊も墜落場所が上野村周辺であるとわかっていたことになる。その一方で、報道されたブドウ峠や御座山、三国峠といった場所に急行した長野県警、長野県消防団、長野県職員たちは、「墜落の形跡なし」と報告している。それにもかかわらず、メディアはこれらの地名を墜落場所だと報じ続けた。その意図はなにか。自衛隊の隠密行動とテレビでの広報活動が連動し、地元の現場の確認を無視して、世論を誘導していたようにみえる。
図の35、36、37を並べる。



手書きで丁寧に書かれた記録だ。
青山さんは、事故調査報告書の調べ方や、遺体記録の掘り起こしなどでもそうだが、その地道で徹底した、詳細まで見逃さない執念が、時に、とんでもない大発見を導く。
この佐久市消防防災課の記録も、そうした執念が実った例と言えるだろう。
1985年8月12日、22時50分に、「自衛隊情報を県警から以下のとおり受ける。北緯36度02分、東経138度41分が墜落現場である」という、動かぬ記録が残っていたのだ。
上野村の位置は本書で記されているが、御巣鷹山も確認しよう。
御巣鷹山の緯度と経度は、北緯36度0分57秒 東経138度41分15秒。
Wikipedia「御巣鷹山」
緯度で2分弱の違いがあるが、緯度1分は1海里、1852メートルなので誤差は、せいぜい3キロほどだ。
ほぼ、墜落地点と同じ位置を特定できていたのである。
これは、重要な記録の発見だ。
そして、この記録とは食い違う自衛隊の情報が新聞で報道されていたのだが、その内容は次回。
