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「べらぼう」に見る、江戸の女性の教養の高さ。

 6月29日のNHK大河「べらぼう」は「灰の雨降る日本橋」という題で、浅間山の大噴火による被害が描かれた。

 そんな中、蔦重の思いつきで、二つの組で灰掃除を競い合い、早くに日本橋界隈に積もった灰を片付けることができた。
 この蔦重の活躍で、これまで敵対するこの多かった鶴屋も、蔦重との距離が近くなった。

 その後、丸屋の娘ていが、蔦重を家に入れてくれて、おにぎりを差し出した。

 それまで、形だけでも夫婦になって本屋を一緒に営もうという蔦重の提案をていは頑なに拒んでいたのだ。
 
 しかし、灰掃除競争というアイデアと実行力を見て、ていは思うことがあったようだ。

 ていが、蔦重に言う。

  蔦重さんは、「陶朱公」という人物は御存じですか? 
  越の武将だった「范蠡(はんれい)」です。

 越王勾践に仕えた范蠡は、名将として名高い。
 范蠡は、勾践の参謀として成果をあげた後、いくつかの国に移り住んではその土地を富み栄させた。

 ていが続ける。
 
  ていは蔦重さんにも、陶朱公のような才覚があるように思います。
  店を譲るならば、そういう方にと思っておりました。

 
 私は、見ていて、驚いた。

 「ここで、范蠡が出て来るのか!?」という感じ。

 中国春秋時代の越の政治家で軍人だった范蠡は、越王勾践に仕え、数々の業績を上げた。

 その後も、伝説を残している。
 Wikipedia「范蠡」から。
Wikipedia「范蠡」

越を脱出した范蠡は、斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、范蠡は名が上がり過ぎるのは不幸の元だと財産を全て他人に分け与えて去った。 斉を去った范蠡は、かつての曹の国都で、今は宋領となっている定陶(現在の山東省菏沢市定陶区)に移り、陶朱公と名乗った。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを送ったと言う。陶朱公の名前は後世、大商人の代名詞となった(陶朱の富の故事)。このことについては、史記の「貨殖列伝」に描かれている。


 ていは四書五経に限らず、寺子屋で、『十八史略』などで、歴史もしっかり学んでいたのだろう。

 江戸時代、商家に生まれた女性の教養の高さを物語る。


 日本では、ある武士の行動によって、范蠡という名が有名になった。

 南北朝時代、南朝の後醍醐天皇が隠岐に流される途中、天皇を奪還しようと試みて失敗した児島高徳が、近くの桜の木を削って漢詩「天莫空勾践 時非無范蠡」を記した。

 「天 勾践を空しゅうすることなかれ、時に范蠡無きにしも非ず」と読む。

 これが、Wikipedia「児島高徳」から拝借した絵。
Wikipedia「児島高徳」

「べらぼう」に見る、江戸の女性の教養の高さ。_e0337777_09503110.png



 この逸話は、演者にもよるが、落語『道灌』の長尺版でご隠居に語らせることがある。

 横丁のご隠居も、教養が高いのである。


 また、先日の「べらぼう」では、田沼意知が花魁誰袖を訪ね、一本の扇を渡した。

 扇には、「袖に寄する恋」と記されていた。

「花雲助(はなのくもすけ)」という“狂名”で参加した狂歌の会ではなにも披露しなかったからと、

 「西行は花の下(もと)にて死なんとか 雲助袖の下(もと)にて死にたし」

 という歌で、誰袖への思いを伝えた意知。

 すると誰袖が、意知を膝で寝かせて、本歌の「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」を呟いた。

 これは、西行の辞世。

 さすがに、花魁は勉強しているねぇ。


 西行のこの辞世のことや、落語の『鼓ケ滝』や『西行』について、以前に書いたことがある。
2017年3月13日のブログ

 長屋の庶民は、寺子屋より、落語などで学んでいたということか。


 ともかく、江戸の女性たちの教養の高さを感じた先日の「べらぼう」でした。
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by kogotokoubei | 2025-07-02 12:54 | ドラマや時代劇 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛
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