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河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(32)


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河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)

 河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の三十二回目。

 同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。
 副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。

 <目次>
□はじめに
□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり
□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨
□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す
□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝
□おわりに

 いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。
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杉浦日向子『江戸へようこそ』

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 鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。
 翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。
 平賀源内が亡くなったのは、安永八年。
 “天明の浅間焼け”と言われる浅間山の大噴火があったのが天明三年(1783)。
 重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのも、天明三年。
 田沼意次の息子意知が城中で佐藤政言に斬られたのが天明四年(1784)。
 十代将軍家治が亡くなり、田沼意次が老中の職を辞すのが天明六年(1786)。

 ということで、このシリーズは、「べらぼう」の今後の内容のネタバレにもなるので、ご留意のほどを。


 引き続き「第二章 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨」から。

 寛政元年(1789)、石部琴好の『黒白水鏡』の挿絵を描いたことで、山東京伝は、連座して過料(罰金)を支払うはめになり、筆を折ろうかと悩む。

 だが、そんな京伝に対し、重三郎は執筆を続けさせようと努力した。ドル箱スターを失うわけにはいかないし、京伝が筆を折ったら遊里文学たる洒落本が廃れ、そうなれば吉原に衰退にますます拍車がかかってしまう。これまで何度か述べてきたように、蔦屋重三郎の版元稼業の最終的な目的は、吉原遊廓の繁栄にあったように思われる。
 このため、さまざまな手段を用いて重三郎は、京伝の執筆意欲を駆り立てようとしたに違いない。当然、京伝は吉原で接待をたびたびうけたろうし、かつて(天明八年)、重三郎と鶴屋喜右衛門らに伴われて日光山や中禅寺湖を旅行していた。現在と異なり、旅は大金が必要なのでそう気楽に行けるものではない。事実、京伝は生涯にこれを含めて二度しか旅行をしたことがない。おそらくこれは版元たちによる接待だろう。そうしたこれまでに恩誼(おんぎ)や信義を思い、京伝も無下に断れなかったのかもしれない。

 こうして、いわば重三郎の泣き落としに負けた京伝は、寛政三年、耕書堂から『箱入娘面屋人魚(はこいりむすめめんやにんぎょう)』を刊行した。

 巻頭では、重三郎の言葉として、「『昨春などは世の中で悪い評議を受けました。今年からは決して戯作の筆はとりません』と、私の方へも断って参りましたが、そうしたことでは読者のみなさまのご贔屓厚い私の店が立ちゆかなくなりますので、是非とも今年ばかりは執筆してくれるように頼んだところ、京伝も長い付き合いの私の頼みゆえ応じないわけにはいかず、決意をまげて執筆してくれました」と記している。

 また、京伝が執筆することになったのか、原稿料も要因となったのではないかと見られている。

 じつは当時、戯作者に対して原稿料は支払われていなかった。版元は戯作者に対し、遊里などで饗応するなどを執筆の謝礼代わりにしていたのだ。

 馬琴によれば、寛政七年、八年になって初めて、重三郎は京伝に潤筆(じゅんぴつ、原稿料)を払うようになったという。が、研究者の佐藤圭子氏などはもっと早く、天明五、六年くらいから支払っていたのではないかと考えている。

 たしかに、吉原で遊ぶには金がかかる。
 京伝のように日光までの旅行もさせてもらい、ある意味では、十分に執筆に見合うだけの饗応は受けていたと言える。
 朋誠堂喜三二などが、何日も吉原で居続けで執筆していたことを思うと、原稿料はその遊び代で十分見合っていたと考えていたのだろう。

 そもそも、蔦屋重三郎が登場する前まで、洒落本や狂歌本などは仲間内で製販・出版するのが一般的で、発行部数が少ないから、貸本屋は儲かったかもしれないが、まともな版元はとても商売にならないと手を出さなかったのだ。たとえば安永九年(1780)に刊行された滑稽本に『古朽木(ふるくちき)』がある。金持ちの子が吉原に桜を植えようとして失敗する笑い話や桃太郎などの話が書かれている。桃太郎などは、川に洗濯に行ったおばあさんが上流から流れてくる桃を二つに割っておじいさんと食べると二人とも若返ってしまい、子作りに励んで生まれた子が桃太郎だと記されている。
 この『古朽木』の作者は、売れっ子作家の朋誠堂喜三二、挿絵は恋川春町。しかし馬琴によれば、この本は西村伝兵衛(馬琴は蔦屋重三郎と勘違い)が出版したところ、わずかに三、四十部しか売れず、大量の売れ残り本はお蔵入りとなり虫(紙魚-しみ-)の住処となっていると語る。極端な例かもしれないが、本を発行しても版元はさして儲からなかったのである。

 その数年後、耕書堂から出た喜三二の『文武二道万石通』や春町の『鸚鵡返文武二道』の二書が大ヒットしたことは、以前ご紹介した通り。

 つまり、数千や万を超える大ヒットは、蔦重の耕書堂で初めて起こったことであり、やっと、原稿料を払うだけの稼げるようになったのだ。

 その原稿料のおかげもあったのだろう、寛政三年には、京伝は『仕懸文庫』、『錦之裏』、『娼妓絹篩(しょうぎきぬぶるい)』などの洒落本も耕書堂から出版している。
 
 言論統制を強める松平定信が、蔦重や京伝を、見逃すわけがなかったのだが、その後は次回。


 とにもかくにも、蔦重や京伝は、権力と闘っていた。

 さて、寛政の時代と違う令和の現代、決して、安倍晋三以降の2012年体制とは違って、過半素割れの自民党政権によるメディアへの圧力は強くはないと思うだが、メディアはどう権力と闘っているのだろう。

 イラン攻撃に関して、広島、長崎への原爆投下を正当化するとトランプに、日本政府は何ら抗議の姿勢を示さない。
 
 もっと、闘うべきではないのか。

 権力の番人という使命を忘れ、芸能界のあるグループの解散などというどうでもいいことばかりを公共の電波で放送するテレビ。

 少しは、蔦重の反権力精神や、遊女など弱い者を助けようとする精神を見習って欲しいものだ。
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by kogotokoubei | 2025-06-28 12:47 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛
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