河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(31)
2025年 06月 24日

河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)
河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の三十一回目。
同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。
副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。
<目次>
□はじめに
□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり
□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨
□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す
□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝
□おわりに
いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。

杉浦日向子『江戸へようこそ』

鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。
翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。
平賀源内が亡くなったのは、安永八年。
“天明の浅間焼け”と言われる浅間山の大噴火があったのが天明三年(1783)。
重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのも、天明三年。
田沼意次の息子意知が城中で佐藤政言に斬られたのが天明四年(1784)。
十代将軍家治が亡くなり、田沼意次が老中の職を辞すのが天明六年(1786)。
ということで、このシリーズは、「べらぼう」の今後の内容のネタバレにもなるので、ご留意のほどを。
引き続き「第二章 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨」から。
松平定信じきじの呼び出しがあった恋川春町は、自ら死を選んだ。
幕府の統制に反して、権力を風刺する黄表紙を書いていた。
しかし、武士であった春町。
上司や藩に迷惑をかけることを案じたのではないかと推測されている。
その春町に代わって蔦重の重要な相棒となったのが、絵師の北尾政演(まさのぶ)、戯作者の山東京伝だった。
彼は町人であり、煙草屋を営んでいた。
上司も藩にも、無縁。
それまで鶴屋から黄表紙を出していた京伝だったが、天明五年(1785)、蔦重の耕書堂から洒落本『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』を出して大ヒット。
引用する。
京伝は黄表紙に加え、洒落本の分野でも売れっ子作家に躍り出たのである。以後は耕書堂から多くの戯作を刊行するようになるが、「『時代世話二挺鼓(じだいせわにちょうつづみ)』の冒頭には、『ここに絵草子の作者に京伝といふ者あり。毎年本屋から新版の趣向をせつかるるたびには、どうぞ体が二つも三つもあればいいと思ふに』云々という書入れがあり、この頃の多忙ぶりがかいま見える」(佐藤至子著『山東京伝ー滑稽洒落第一の作者ー』)という。重三郎が相当京伝に無理を言って戯作を書かせていたことがわかる。それだけではない。その後も重三郎は京伝を絵師として重んじ、『吾妻曲狂歌文庫』(天明六年刊)、『古今狂歌袋』(天明七年刊)などを耕書堂から出版していった。こうして山東京伝は、耕書堂のドル箱作家になったのである。
山東京伝と蔦重の絶頂期が、天明五年から七年頃なのだと思う。
しかし、その頃、田沼時代は終焉を迎えていた。
そんな寛政元年(1789)、石部琴好(いしべきんこう)が書いた黄表紙『黒白水鏡(こくびゃくみずかがみ)』が絶版処分となり、作家の石部は手鎖(手錠をはめて過ごす)の刑に処せられたあと、江戸処払いになった。『黒白水鏡』が田沼意次の失政や意次の息子・意知が佐野政言に刺殺された事件を揶揄する内容だったからであろう。
石部は本名を松崎仙右衛門といい、江戸本所亀沢町に住む町人だった。武士ではない。しかし御用商人という日頃の武家との関係の深さから、罪を蒙ったものと考えられている。この『黒白水鏡』の挿絵を描いたのは北尾政演、つまり山東京伝だった。
じつは京伝も『時代世話二挺鼓』で同じような内容の黄表紙を書いているのだが、なぜかお咎めを受けることはなかった。京伝が完全な町人だったからか、それとも書き方が巧みだったのか、その辺りはよくわからない。いずれにせよ、『黒白水鏡』では挿絵を描いたことで、京伝も石部に連座して過料(罰金)を支払うはめになってしまった。
これにショックを受けたようで、翌寛政二年になると、京伝は断筆すべきかどうか悩むようになった。この年、三十歳になった京伝は、扇屋の遊女・菊園と夫婦になっており、身を固めたことも引退を考えるきっかけになったのかもしれない。
『黒白水鏡』を、国立国会図書館サイトで確認することができる。
国立国会図書館サイトの該当ページ
一場面。

鎌倉時代を舞台にしているが、田沼時代の終焉を描いていることは明らか。
田沼意次を梶原かぬま、子の意知を山二郎、佐野政言を佐の之介、という名になっている。
執筆を続けるかどうか悩む京伝だが、蔦重は、弾圧に負けるわけにはいかないと、京伝を鼓舞する。
その結果、どうなるかは、次回。
「べらぼう」では、蔦重の日本橋進出に関連し、丸屋の娘ていと蔦重とのやりとりが描かれていた。
丸屋小兵衛とは、どんな店だったのか。
Wikipedia「丸屋小兵衛」から。
Wikipedia「丸屋小兵衛」
豊仙堂、豊僊堂、丸小と号す。「踊僊判」の印も使用する。姓は山本。始めに寛延から天明期に大伝馬町3丁目で営業している。後に通油町に移るか。丸屋九左衛門と関係があるかと思われる。一枚絵のほかに青本、黄表紙も刊行しており、元禄年間から浄瑠璃本を版行、宝暦年間には2代鳥居清信、2代鳥居清倍、鳥居清満、鳥居清広、山本藤信らの紅摺絵を版行した。その後、一筆斎文調の錦絵を多く出版したほか、勝川春章、北尾重政の錦絵を出版している。後に丸小の株を蔦屋重三郎が買取り、その跡に天明3年9月に移転する。
丸屋には、成り上がりの蔦重と違って、歴史はある。
補足すると、「べらぼう」でも描かれていたように、往来物の出版も盛んだった。
丸屋の娘ていと蔦重が夫婦になったという記録は見当たらないようだが、あっても不思議はない脚色かもしれない。
日本橋通油(とおりあぶら)町は現在の大伝馬町。
地本問屋街になったのには、歴史的背景がある。
まず、江戸庶民にとって、伊勢暦は、一家に一冊と言える大事な本。
伊勢には暦を彫る職人が多く、書物の版木も彫っていた。
伊勢商人が伊勢木綿の松坂縞を売り込むため大伝馬町にやって来た。
すると、暦を彫る職人たちも江戸にやって来て、大伝馬町に隣接する通油町に住むようになった。
すると、版木屋が多い同町に、地本問屋(版元)も集まるようになった。
結果として、通油町は江戸随一の「書肆街」となった。
ということ。
もちろん、日本橋界隈は人出も多い。
丸屋の店舗と問屋の株を手にいれたことが、吉原の耕書堂から江戸の耕書堂に発展するきっかけとなった。
いわば、M&Aによる事業拡大であった。
