加川良「教訓Ⅰ」の記事を復活
2025年 06月 18日
2017年4月に加川良の訃報に接した際に書いた記事だ。
加川良と言えば「教訓Ⅰ」だ。
これが、「教訓Ⅰ」を含むデビューアルバム「教訓」のジャケット。

8年前の記事では歌詞全文を紹介していたため、exciteがJASRACに忖度したのか自主規制で非公開にしたと思われる。
これが、ブログ管理者(私)画面の一部。

NHK朝ドラ「あんぱん」で、従軍する崇に、実の母が「生きて戻ってこい」と言ったことや、上等兵が崇に、戦場で生き延びるには「卑怯者になることだ」と言ったことなどから、この歌を思い出していた。
まず、当時のデイリースポーツの記事。
結構、しっかりと加川良という歌い手のことを書いている。
デイリースポーツの該当記事
加川良さん 急性骨髄性白血病で死去 判明から4カ月、前夜容体急変
デイリースポーツ 4/6(木) 5:59配信
「教訓1」などで知られ、日本フォーク界の先駆け的存在だったフォーク歌手・加川良(かがわ・りょう)=本名小斎喜弘=さんが5日午前9時39分、急性骨髄性白血病のため都内の病院で死去した。69歳。滋賀県出身。所属事務所によると、昨年12月9日の検査入院で急性白血病が判明。今月4日夜にに容体が急変し、妻・富士子さんに見守られて息を引き取った。葬儀・告別式は親族のみで行い、後日、追悼ライブを開く予定。
訃報は一人息子でミュージシャンのgnkosai=本名小斎元希=が自身のフェイスブックで伝えた。
加川さんは昨年12月14日、公式サイトで「12月9日 山梨県下の病院に検査入院、少々つかれ気味でした。本日6日目、今しばらくの入院生活となりそうです」と、恒例の直筆メッセージで報告していた。メッセージは「また お会いします」と結ばれていたが、約束は果たされることなく、これが最後のメッセージとなった。
所属事務所の阪本正義社長によると、加川さんはそれまで普通にライブを行っていたが、検査入院で急性白血病が判明。1月に入って都内の病院に移り、闘病生活を送っていた。病状は「穏やかな日もあり、ムラのある日々だった」が、4日夜に容体が急変。静かに息を引き取った。
加川さんは昨年6月、ニューアルバム「みらい」を発表。10月には米シカゴでライブを行った。その後も12月4日の福岡までライブを行ったが、同17日の大阪、18日の岡山を入院のため延期した。
今年は古希を迎えることもあって、いろいろなイベントが予定されており、ライブの予定も多く入っていたという。阪本氏は「本人も夢にも思っていなかったと思います」と、加川さんの無念を思いやった。
加川さんはセミプロのグループサウンズのボーカルを経て、高石ともや、岡林信康や故高田渡さんが所属していた日本のインディーズレーベルの先駆け「URCレコード」の出版会社「アート音楽出版」に就職した。
1970年、伝説の第2回中津川フォークジャンボリーに飛び入りして「教訓1」を歌いデビュー。小室等、友部正人、大塚まさじらと共に日本のフォークの先駆けとして活躍した。吉田拓郎が72年に発表したアルバム「元気です」には「加川良の手紙」という楽曲が収録されている。
私は今年古希を迎えたが、8年前、加川良はその前に、人生を終えた。
二十代で越後にいた時、会社の近くのレストラン兼ライブハウスで加川良のライブがあり、彼の歌を生で聴くことができた。
ジャズのライブなども開くそのお店のご主人と懇意にしていたので、打ち上げにも参加させてもらった。
実に腰が低く、その場にいた私たちに酒を注いで回っていた姿を、今でも思い出す。
たぶん、昭和57年か58年だったと思う。
生で聴いた「教訓Ⅰ」は、素晴らしかった。
今も、この歌が求められているように思う。
では、管理者非公開にならない程度(と勝手に思う)に「教訓Ⅰ」の歌詞を部分的に紹介したい。
♪命はひとつ 人生は1回
だから 命をすてないようにネ
あわてると つい フラフラと
御国のためなのと 言われるとネ
青くなって しりごみなさい
にげなさい かくれなさい
♪死んで神様と 言われるよりも
生きてバカだと いわれましょうヨネ
きれいごと ならべられた時も
この命を すてないようにネ
青くなって しりごみなさい
にげなさい かくれなさい
♪青くなって しりごみなさい
にげなさい かくれなさい
青くなって しりごみなさい
にげなさい かくれなさい
国のために命を捨てよ、などという言葉には、震えよう。
戦争ができる国にしようとする人たちからは、青くなって逃げよう。
ライブのYouTubeを見つけた。
お聴きください。
