「あんぱん」は、バシー海峡をどう描くのか
2025年 06月 13日
NHKの朝ドラ「あんぱん」は、今、戦中のことを描いている。
やなせたかしをモデルとする柳井崇は陸軍、弟の千尋が海軍。
実際の柳瀬千尋は、京都帝大に進んだが、学徒出陣で海軍少尉として従軍。
日本海軍の駆逐艦「呉竹(くれたけ)」に乗船中、昭和19年12月30日、アメリカ軍の潜水艦が発射した魚雷により呉竹が沈没し、亡くなった。
場所は、バシー海峡。
魔の海峡、と呼ばれる。
西日本新聞の記事から地図を拝借。
「西日本新聞」の該当記事

バシー海峡に関しては、何度か紹介してきた。
最初は、2010年の8月、小島貞二著『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』について書いた記事だった。
2010年8月17日のブログ

小島貞二 『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』
その記事の6日前に、NHKは戦争特番として、「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」を放送したが、あの番組に関する記事でも、この本のことを取り上げていた。
2010年8月11日のブログ
過去の記事との重複をご容赦願い、バシー海峡について振り返りたい。
古今亭志ん生の『びんぼう自慢』の聞書きをした人として知られる小島貞二さんは、非常にユニークな経歴をもっている。
小島さんは、戦前のある時期には出羽海部屋の力士であった。安芸ノ海の付き人として、昭和14(1939)年1月場所四日目の1月15日に、あの双葉山の70連勝目を安芸ノ海が止めた歴史的な瞬間にも立ち会っている。
その後は博文館に入社して雑誌『野球界』の編集部に所属し、相撲の記事を担当する。
昭和十八年のことから。
この年の五月場所の十日目の午後三時、突如取り組みが中止され「連合艦隊司令長官山本五十六戦死」がアナウンスされ、満員の客席がウッと息を呑む。本当は四月十八日、ブーゲンビル島の上空で、撃墜されての戦死であったのだとあとできく。
七月、東京市が東京都となり、九月には空襲時にそなえて上野動物園で猛獣数頭が薬殺される。日独伊で同盟を結んでいたイタリアが、遂に無条件降伏する。
以上、その年、九月までの出来事だった。
そして九月二十三日、いよいよ我が身に火の粉がふりかかる。
「国内必勝勤労対策」というので、駅の出札係、理髪、外交員など十七職種に男子就業を禁止するという法令が出た。雑誌編集者なども当然この中に入る。私は「二十五歳未満の男」ときいていたが、記憶はあまり当てにならない。要するにクビである。いまどきの会社のリストラよりズーッと厳しい。博文館の大橋進一社長は、別れてゆく社員のために、柳橋の料亭で宴席をもうけてくれた。一龍斎貞山(六代目・桝井長四郎)が「寛永三馬術」を熱演した。
「ウチへおいでよ。井上君も一緒だからさ」
といってくれたのは寄稿家の一人であった野球評論家の大井廣介さんだった。福岡県の飯塚に麻生鉱業があり、大井さんは社長のいとこに当たる。炭坑なら徴用は来ない。九州もいいとこだよ、という誘いがあって、十月、飯塚へ行く。
申しわけないが、“自分史”をもう少しご辛抱していただく。
大井さんから、
「ウチは南方でも炭坑を開発している。そっちも男の花道だよ」
ときいていた。九州へゆくとき、作家の井上友一郎さんも一緒になった。井上さんも筆の仕事をあきらめて、炭鉱ゆきを決意したのであろう。私は吉隈炭坑、井上さんは別の鉱業所に配置され、私は南方行きを志願しておいた。
仕事は労務係。増産のポスター描きも引き受ける。南方派遣にはマレー語が必要だというので猛勉強中に、教育召集、赤紙が来る。八十日間と日を区切った令状だ。名古屋のお城の下の中部第八部隊。砲兵部隊であった。
折りから動員のピークのころで、私たちの兵舎にもドーッと応召兵が入ってきて、寝るところを占領しておいて、そのうちにサーッと出発してゆく。まだ寒いのに夏向きの軍装から南方往きを思わせた。その繰り返しのうちに、八十日がアッという間に過ぎ、帰された。おそらく南方に砲兵はお呼びでなかったのだろう。
帰されるのを待っていたかのように、社命で南方派遣が出る。任務先はインドネシアのセレベス島(現・スラウェシ島)。ボルネオ島の東にある「Kの字」形をした島で、麻生が開発した鉱業所がある、そこへ行けというのだ。
向こうでつけていた日記は、帰るときすべて取り上げられたので何もないが、記憶は残る。佐世保港から君川丸という徴用客船(約一万トン)に乗せられ、出航したのは昭和十九年七月十一日だった。
東支那海へ出ると、あちこちから船が集まり、たちまち大船団となる。航空母艦もいる。心強い。日本海軍は健在なりを思う。
健在が一瞬、恐怖に変わったのは七月十八日。命拾いしたあと、船中で見たガリ版刷りのニュースで、「東条内閣総辞職」を知った日であったから忘れ得ない。
命拾いとは、「そろそろバシー海峡だよ」と聞いたその日の夕刻、私はトイレのため甲板に上がり、用足しのついてに深呼吸をした。船内はすし詰めで息苦しい。トイレは甲板の脇に間に合わせのように設けられ、風の強い日など大も小も甲板に舞う。
「きょうは臭い日だね」が会話のひとつになっていた。
深呼吸の瞬間、「取り舵一杯!」の絶叫に続いて、船はギシギシ音を立てて左に廻る。その鼻っ先を、おそらく十メートルもないほどの距離を、魚雷が右に走ってゆく。間髪を入れずに、我がほうの艦載機が飛び、駆逐艦が走り、爆雷投下。幸い船団のどの船も無事であったようだ。火柱はどこにもない。
おそらく東條内閣崩壊の日を狙っての攻撃であったろう。ことらの防御もそれだけに万全であったのだろう。
大岡昇平の『俘虜記』によると、彼も同じころ、同じ海を渡っている。「サイパン陥落」の報をきいた三日後、バシー海峡で日進丸が魚雷を受け沈む。生存者約七百名を傍船が収容するとある。私たちよりひと足早い船団であったろう。
「南方へ死ににゆく」が実感となる。
このバシー海峡は、「魔の海峡」や「死の海峡」と言われ、数多くの日本兵士の命を奪っている。
犠牲者は、十万人とも言われている。
小島さんが命拾いをした一ヶ月後の八月十九日には、“ヒ71船団”の「玉津丸」が米軍の潜水艦スペードフィッシュの魚雷を二発受けて沈没し、5000名近くの兵士が亡くなった。
バシー海峡の近くに、潮音寺という、海峡で亡くなった戦友のためのお寺がある。
公サイトから引用する。
「潮音寺」公式サイト
潮音寺は、1944年8月にバシー海峡付近にて、玉津丸が撃沈された後、12日もの間漂流し、まさに九死に一生を得た故中嶋秀次氏(2013年10月、92歳で死去)が1981年にその半生と私財を投じ、この海峡で戦死した戦友たちのために建立した台湾最南端の猫鼻頭に位置するお寺です。
中嶋秀次さんは、まさに奇跡的にバシー海峡で生き延びた。
亡くなったのは、奇しくも、やなせたかしと同じ2013年10月。
10年前、敗戦後70年を迎え、台湾の潮音寺で慰霊祭が行われた。
今は更新していない兄弟ブログ「幸兵衛の小言」で、毎日新聞から引用していた。
「幸兵衛の小言」2015年8月4日の記事
毎日の記事は、すでにリンクが切れている。
台湾:バシー海峡「潮音寺」で大規模な慰霊祭
毎日新聞 2015年08月02日 20時46分(最終更新 08月02日 20時50分
◇太平洋戦争中に多くの日本軍艦船が撃沈されて…
【恒春(台湾南部)鈴木玲子】太平洋戦争中に多くの日本軍艦船が撃沈されたバシー海峡を望む台湾南端・屏東県恒春にある潮音寺で2日、戦後70年を記念する大規模な慰霊祭が営まれた。遺族を含め日本人や台湾人ら約160人が参列した。
台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡は南方戦線に向かう主要輸送ルートだったが、米軍潜水艦の魚雷攻撃で多くの艦船が撃沈され「輸送船の墓場」と言われた。周辺海域での死者は少なくとも10万人と言われる。
寺は、1944年に撃沈された輸送船「玉津丸」に乗っていて奇跡的に生還した中嶋秀次さん(故人)が、81年に寄付を集めて建立した。
慰霊祭では、佐賀県小城(おぎ)市にある禅林寺の吉田宗利住職(73)が読経し、参列者が焼香した。吉田さんの父、宗雄さんは輸送船を護衛中に撃沈された駆逐艦「呉竹」の艦長だった。その後、白い菊の花が海に献花された。
昭和19年12月30日、魔の海峡で、柳瀬千尋は呉竹とともに沈んだ。
戦後80年、今年も8月に慰霊祭がある。
「バシー海峡戦没者慰霊祭のサイトの案内のページ。
「バシー海峡戦没者慰霊祭」サイトの該当ページ
重松正一さんという方がいらっしゃる。
お父さんを亡くされてから、フィリピン戦を研究され、遺族の方の依頼による調査や慰霊に尽力されており、「遺誌 独立歩兵第13聯隊第3大隊のレイテ戦史」というサイトを運営されている。
「遺誌 独立歩兵第13聯隊第3大隊のレイテ戦史」
NHKの特番や小島貞二さんの本のことを書いた時期、重松さんのサイトを拝見していて、テレビ朝日系列の「テレメンタリー」で「バシー海峡~知られざる惨劇の記憶~」という番組が放送されることを知り拙ブログでご紹介した。
これが、その「幸兵衛の小言」2010年9月9日の記事。
「幸兵衛の小言」2010年9月9日の記事
この記事に、重松さんご本人からお礼のコメントを頂戴したのには驚いた。
90歳に近くなった重松さんは、今も、講演などで戦争の悲惨さを訴えられている。
さて、柳瀬千尋のこと。
「現代ビジネス」に、柳瀬千尋と呉竹に関する記事が載っていた。
「現代ビジネス」の該当記事
これが、呉竹の写真。

同記事に、広島県呉市上長迫町の呉海軍墓地にある、慰霊碑の写真がある。
戦艦大和をはじめ、呉鎮守府所属だった旧海軍艦艇や部隊の慰霊碑が立ち並ぶ中にある、昭和19年12月30日、アメリカ軍の潜水艦が発射した魚雷により沈没した日本海軍の駆逐艦呉竹の慰霊碑。
71名の犠牲者の名が刻まれているが、「柳瀬千尋」の名のある部分。

以前書いたように、「あんぱん」には脚色を超えるレベルの創作がある。
やなせたかしと小松暢は、戦後、高知新聞で初めて出会っている。
だから、戦前に二人が出会ったというのも、千尋が、本当は暢を好きだったというのも、創作。
しかし、千尋がバシー海峡で亡くなったのは事実。
果たして、どのように描くのか。
これは、このドラマ前半の重要な部分だ、手抜きして欲しくない。
やなせたかしが反戦の意志を強く持ったのは、千尋の戦死も影響しているのだから。
