戯作の生れた時代ー杉浦日向子著『江戸へようこそ』より。
2025年 06月 09日
昨夜のNHK「べらぼう」は、恋川春町が主役だった。
狂歌の会で「筆を折る」と言った春町を、蔦重他がなんとか説得しようとする。
春町は、とにかく一癖も二癖もある男。
どちらか言うと暗いイメージだが、やることや作品は、ぶっ飛んでいる。
屁屍屁、という字を書いたり、酒上不埒(さけのうえのふらち)という狂歌名など、個性あふれる戯作者であり絵師。
北尾政演(きたおまさのぶ、山東京伝)の明るい天才ぶりとは好対照。
あの時代に朋誠堂喜三二なども含む多くの戯作者が誕生したのには、やはり、時代背景が理由の一つであることは確かだろう。

杉浦日向子『江戸へようこそ』
また、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』から。
本書は、1986年に「ちくまぶっくす 63」として刊行され、1989年に文庫となって再刊。
巻末の参考年表も、ご覧のほどを。

「戯作の生れた時代」の章から。
「戯作」の言葉は、はじめ中国に発し、「杜甫、上漢中王の戯作に寄する詩」とか「陸游、冬の夜に雨を聴きて戯作する」というように使われています。日本でも漢語の影響を受けて、即興詩や、名歌のパロディ戯作と称し、江戸以前からありました。
しかし、一般には、江戸の中期、宝暦(1751~)以降に起きた、享保の改革と寛政の改革のはざま、いわゆる田沼時代を頂点とした、のびやかで享楽的な空気の中で誕生した文芸がとくに戯作と呼ぶにふさわしいものだと考えられています。
戯作の生まれた時代というのは、田沼意次の重商主義によって、最も商人の栄えた「町」の時代でした。物質的にも豊かになり、ファッションも多様化し、灯油が諸物価に対して手軽な値段になったので、夜更かしをするようになり、その為、以前までの一日二食(朝食・夕食)が三食(朝食・昼食・夜食)となるなど生活形態も変化しました。そんな中で、黒羽二重の長羽織、本多髷に銀ぎせるといった通人の風俗や、料理茶屋の発達、川柳・狂歌等の会の流行、吉原、岡場所の繁盛がありました。
江戸時代の文化については、元禄文化の次に化政文化が挙げられる。
文化文政時代(1804~183年)を最盛期として発展した町人文化を指す。
浮世絵や滑稽本、歌舞伎、川柳など、一般に現代に知られる江戸期の町人文化の全盛期にあたり、国学や蘭学の大成した時期でもある。
しかし、その礎は宝暦以降の田沼時代にあったと言える。
田沼時代≒賄賂の時代、という印象が強いため、田沼時代に栄えた文化のことは見逃されがちだが、宝暦・天明時代の戯作の隆盛は、その後の化政文化につながるとして、あらためて見直されつつある。
引用を続ける。
文化面では、開明的な政策により、洋学が奨励され、日本を取り囲む世界情勢や、西欧の産業知識などが、霧が晴れて行くように、徐々に明らかになってきました。奥蝦夷地探検船を出したり、対ロシア貿易、鉱山採掘と殖産富国策、海運開発等、目ざましい動きがありました。
「べらぼう」でも、蝦夷が話題になっていたね。
宝暦・天明の時代の大らかな、自由な空気が、戯作の繁栄を作ったことは間違いないだろう。
しかし、田沼時代は、天変地異もあって、終焉を迎える。
関東大出水、浅間噴火、天明の大凶作等、約20年間の間に、大きな天災が三つも起り、加えて、若年寄田沼意知(意次の子)殿中刺殺事件、将軍家治変死の風聞、老中田沼意次失脚といった光と陰の交錯する時代でした。このような環境を得て、戯作が醗酵し、熟成していきました。
浅間山大噴火は天明三年(1783)のことで、この年は、蔦重が日本橋に耕書堂を開いた年である。
また、田沼意知が江戸城中で刺殺されるのは翌天明四年(1784)のこと。
そろそろ、NHK「べらぼう」も、田沼時代の終焉に向かいつつある。
息苦しい寛政の改革の時代、どのように蔦重、そして、戯作者や絵師、狂歌師などが描かれるのかは楽しみだ。
宝暦・天明の田沼時代に栄えた戯作の時代が、その後の化政文化にとつながっていくということは、忘れてはならないと思う。
種を植えなければ、穀物も花も実ることはない。
宝暦・天明に種が蒔かれたからこその化政文化。
では、「元禄」とも言われた昭和に蒔かれた種は、平成、令和にどんな花となって咲いているのだろうか。
戯作の生れた時代を振り返ってみると、そんなことも思ってしまう。
