河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(24)
2025年 05月 22日

河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)
さて、河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の二十四回目。
同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。
副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。
<目次>
□はじめに
□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり
□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨
□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す
□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝
□おわりに
いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。

杉浦日向子『江戸へようこそ』

鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。
翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。
重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのが、天明三年(1783)。
田沼意次の嫡男で若年寄だった意知(おきとも)が、佐野政言(まさこと)に江戸城中で斬られたのが、天明四年(1784)三月。
引き続き「第二章 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨」から。
松平定信の思想・情報の統制と、蔦重の抵抗について。
朱子学以外の学問を昌平坂学問所で教えてはならぬとか、好色本は絶版にせよとか、政治を風刺する黄表紙や洒落本を書くなとか、さまざまな統制政策を展開していった。
このため、版元たちが、黄表紙や洒落本の刊行を控えた李、内容を穏便なものにしているなかで、天明八年(1788)、蔦屋重三郎は朋誠堂喜三二の黄表紙『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどうし)』を出版してしまう。
その内容だが、鎌倉時代を舞台とし、間抜けな武士が文武を奨励する幕府にあわてふためくという滑稽な内容だった。
当時の老中松平定信がうるさく文武に励むよう通達していたので、源頼朝の重臣畠山重忠を定信に見立てるなど、暗に寛政の改革を茶化したものだった。幕政批判としては最も早い作品の一つだといえる。
ただ、馬琴が先の『近世物之本江戸作者部類』で「古今未曾有の大流行」と記したように、『文武二道万石通』は予想外に部数を伸ばし、売り切れてしまうほどだった。
農業と上下の秩序を重視した朱子学を重視した定信の政策は、「寛政異学の禁」と呼ばれる。
政治批判を禁止したり、贅沢品の取り締まり、そして、出版統制などについては、「処士横議の禁」と言われた。
この禁止条例が、蔦重たちに襲いかかってくるのだが、それについては、後述。
ベストセラーとなった『文武二道万国通』の一部を「国書データベース」のサイトから拝借。
「国書データベース」サイトの該当ページ

重三郎は、このヒットに味を占め、同じような黄表紙、あの恋川春町作の『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』を刊行した。
こちらは元号が替わり寛政元年(1789)のことだ。
Wikipedia「鸚鵡返文武二道」から、どんな内容か引用する。
Wikipedia「鸚鵡返文武二道」
延喜の帝(醍醐天皇)の御代のこと、天下泰平が続いたはよいが、それにより人の心も華美に流れ、要らざる費えが増えたことを帝は嘆き、自ら質素倹約に励んだ。また菅原道真の子である菅秀才を補佐として政治を任せるが、世は生憎の人材不足。そこでまず人々に武芸を習わせ兵事を強くしようと菅秀才は考え、源義経、源為朝、小栗判官を呼んで人々へ武芸の指南をさせることになった。義経も為朝も小栗判官も、延喜とは時代の違う後の世の人物だが、そこは菅秀才いわく「草双紙だから、うっちゃっておきやれ」さ。
義経たちは人々にそれぞれ剣術や弓、馬術の指南をする。ところが教えられた側はやることが次第に脱線してきて、あたりかまわず矢を放ち人の物を壊すやら、義経が牛若丸と名乗っていた時に五条大橋で千人切りをしたのに倣い、五条橋などで人を襲うやら、果ては馬術の稽古と称して馬には乗らずに陰間に乗るやら女郎に乗るやら…と、人々は市中で数々の見当違いを起こしたのであった。
「草双紙だから、うっちぇっておきやれ」というのが、笑える。
よくも、このような突拍子もない発想ができるものだ。
案思づくりの才能が豊か。
そうそう「案思(あんじ)」と言えば、18日の「べらぼう」で、恋川春町に黄表紙を書いてもらうため、重三郎たちが、「案思」を考える、という場面があった。
案思は、「構想」とでも言い換えることができるだろう。
春町は、誰もやったことのない案思で作品を作りたがるからと、重三郎たちは、いろんなアイデアを思いついては、過去の作品で同じような内容がないか確認していた。
結果、「百年後の江戸」という案思が、春町の心を動かした。
そして出来上がった黄表紙は、『無益委記(むだいき)』。
今後「べらぼう」で内容の紹介があるかと思うので、ここでは説明しない。
さて、寛政の改革による出版統制で、次第に戯作者や狂歌師にも影響が及ぶのだが、それについては次回。
