河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(14)
2025年 03月 20日
昨夜のNHK総合「歴史探偵」は、吉原をVRで再現する内容で、なかなか興味深かった。
NHKサイトの該当ページ
25日の夜に再放送されるので、興味のある方はご覧のほどを。
この本の著者も出演し、吉原や江戸のいろいろを説明していた。

河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)
少し時間が空いたが、河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の十四回目。
同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。
副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。
<目次>
□はじめに
□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり
□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨
□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す
□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝
□おわりに
引き続き、第二章「田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨」から。
いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。

杉浦日向子『江戸へようこそ』

ちなみに、鳥山検校が瀬川を身請けしたのは、安永四年(1775)である。
16日のNHK「べらぼう」では、重三郎が富本節の正本での商売のきっかけをつかんだ。
本書の記事では、その次の出版の対象として、狂歌に目をつけたことに進んでいる。
天明元年(1781)に、重三郎は四方赤良(大田南畝)と初めて会った。
それは、赤良が、黄表紙の評判記『菊寿草』で、重三郎の耕書堂から出版した朋誠堂喜三二などによる黄表紙を高く評価してくれたことに加え、絵師の北尾重政、北尾政演(まさのぶ、山東京伝である)もランキングに入り、耕書堂そのものも、版元として鶴屋などの老舗と並んでランクインしたことへの、重三郎からのお礼の訪問だった。
ちなみに、「べらぼう」で、ようやく朋誠堂喜三二(本名は平沢常富-つねまさ-)の出番が増えてきたね。
さて、重三郎と赤良のこと。
初対面からまもなくして重三郎と赤良は、急速に親しくなっていく。それは、四方赤良(大田南畝)の日記を見るとよくわかる。
知り合った翌年(天明二年)の三月九日、赤良は土山宗次郎(そうじろう、幕府の旗本)、朱楽菅江(あっけらかんこう)、平秩東作(へづつとうさく)と連れだって吉原遊廓に行き、「引手茶屋尾張屋で桜を観ながら宴を張った後、京町の大文字屋に登楼、それぞれ遊女を呼んで遊んだ翌朝早く、赤良と菅江は蔦重のもとを訪れ、そこだまた宴を張る。午後になって、蔦重が呼んだ駕籠に乗って帰宅」(鈴木俊幸著『新版 蔦屋重三郎』平凡社ライブラリー)しているからだ。
このように、重三郎の屋敷で酒や料理を御馳走になるほど、赤良は重三郎と親しい関係になっているのだ。
さらに同年十一月には、赤良の長男の「髪置祝儀」(三歳の七五三)がおこなわれたが、そのさい」「蔦重は宴席に連なり、ちゃっかりと『通詩選笑知(つうちせんしょうし)』の編を赤良に依頼している」(前掲書)のだ。
重三郎の「人たらし」ぶりが察せられる。
その成果として、赤良との強いつながりから、彼の仲間の狂歌師たちも丸ごと、重三郎の人脈に引き入れることができた。
それも、吉原が、単に性欲や食欲を満たすのみならず、文化人のサロンとして、狂歌師たちの名誉欲をくすぐる場でもあったからでもある。
引用する。
ともあれ安永年間末から天明年間初めにかけて、吉原外交によって蔦屋重三郎は売れっ子の作家や絵師と強力なコネクションをつくり、その弟子たちも引き込んで膨大な蔦重人脈を構築していった。
では、重三郎は築き上げた人脈を使って、具体的にどのように本業の利益につなげていったのだろうか。
狂歌本に関して、その手法を見ていこう。
先述のとおり、狂歌がブームになると、各地に狂歌の連という団体が生まれていった。連は狂歌師を中心に狂歌の愛好家が集まって歌会を開く活動が主だった。
連の構成メンバーだが、主に知識人の下級武士や裕福な商人が狂歌師となり、そこに比較的生活に余裕のある町人たちが集い、皆で狂歌づくりを楽しんだのである。もちろん酒食が供されることも少なくなく、場合によっては連の会合のあと、吉原遊廓に繰り出し引手茶屋で酒宴を張ったり、妓楼に登ったりすることおあったろう。
ちなみに重三郎は、自ら狂歌師となって蔦唐丸と称し、狂歌の「吉原連」の中心となって狂歌会を主催するようになる。同時に、四方赤良や恋川春町などが主催する狂歌連の会合などにもしばしば顔を出している。
鈴木俊幸氏は、このように「狂歌師蔦唐丸の活躍は一見めざましい。現在確認できる狂歌の数は多くはないが、蔦唐丸はこのような催しには多く参加しており、狂歌界での旺盛な活動をうかがわせてくれる資料は少なくない」(『新版 蔦屋重三郎』)と述べる。
自らも狂歌を作り、一つの連を主催していたことで、狂歌師たちが重三郎に対し、彼が単に商売のために付き合っているのではないという、親近感、信頼感を抱くことになったに違いない。
他の狂歌連の会合にも頻繁に顔を出せば、そこで作られた狂歌の本を出すことは、そう難しいことではなかったろう。
もちろん、連の会合には、狂歌師のみならず、戯作者や絵師なども顔を出している。
蔦重山脈とも言える大きな人脈の山ができていたのだ。
その人脈には、当時の超有名人もつながっていた。
五代目・市川團十郎のような歌舞伎役者も狂歌師として活躍していた。團十郎の「三升連」はある意味、ファンクラブでもあった。
「楽しみは 春の桜に 秋の月 夫婦仲良く 三度食う飯」
これは團十郎の作である。歌舞伎役者と狂歌の組み合わせは少々意外な気がするが、狂歌を愛した役者たちは多く、いまも多くの作品が残っている。つまり、狂歌界にいることで、重三郎は役者とも顔見知りになれたわけだ。
上記の團十郎の作品は、八代目林家正蔵がマクラで使っていたはずだ。
次回は、重三郎が刊行した狂歌の本について、ご紹介したい。
