人気ブログランキング | 話題のタグを見る

桂才賀が志ん朝門下になった頃のことー『よってたかって古今亭志ん朝』などより。

 桂才賀の最初の師匠は九代目桂文治。通称、留さん文治。

 留さんは、弟子入りを断るつもりで「まず、自衛隊に三年行ってこい」と言ったが、本人、本当に海上自衛隊に三年入った。
 となると、入門を断ることができない。

 六年の日々が過ぎ、留さん亡き後のこと。


桂才賀が志ん朝門下になった頃のことー『よってたかって古今亭志ん朝』などより。_e0337777_11081817.jpg

『よってたかって古今亭志ん朝』(志ん朝一門、文春文庫)

 『よってたかって古今亭志ん朝』は、2006年に文藝春秋から単行本、2008年に文春文庫で発行された。

 弟子たちの話を元に、岡本和明が構成・文を担当。

 これまでも、本書からは亡くなった志ん朝門下の噺家さんのことを紹介したことがあるが、才賀の入門の経緯はまだ紹介していなかった。

 「出会い」の章から。

 ギャンブル研究会から弟子入り

 私(才賀)の最初の師匠は、桂文治(九代目)、通称留さん。だから、他のお弟子さんと違うのは、他の人たちは<この人だっ>と決めた時は素人なんですが、私の場合は文太の名前で文治師匠の下に六年間いて、その間、色々な師匠の素顔を見た上で、文治師匠の死後、志ん朝師匠に決めたんです。ですから、プロの目で決めたことになるんです。志ん朝師匠の弟子になった時、私は二ツ目になっていました。
 師匠の文治が亡くなると、兄弟子の文七(現・翁家さん馬)が、
「俺は教会の預かりでもいいが、お前はどこへ行きたいんだ?」
 って聞いてきたので、私は迷わず、
「志ん朝師匠のところへ」
 って答えました。
「それじゃあ、俺が行って頼んでやるから、先方の都合を聞いて、挨拶に伺おう」
 ということになって、兄弟子と二人で志ん朝師匠の家へ行くことになったんですが、兄弟子は志ん朝師匠の家へ行ったことがないから道がわからない。ところが私はよく知っているので、道案内を勤めることになりました。兄弟子が道を間違えそうになる度、
「兄さん、こっちです」
「兄さん、そこを左に曲がって」
 と、やけに詳しいもんだから、その度に、
「お前何で知ってるの?」
 って聞かれました。そこは私もぬかりはありませんから、
「いえ、事前に地図を調べておいたもんで」
 って答えましたが、地図なんか見なくても、私は師匠の家への道順はよーく知ってたんです。

 これは、昭和53年(1978)5月のこと。

 ということは、あの落語協会分裂騒動の直前だったのである。

 兄弟子の文七は、師匠である留さんの養子になった人で、留さんが亡くなった翌年に十一代目の翁家さん馬を襲名した。

 引用を続ける。

 何故かって言うと、志ん朝師匠の家で開かれる“ギャンブル研究会”の常連だったからです。勿論、そんなことを師匠の文治に知られたら破門は間違いなしですから、師匠にも、兄弟子にも内緒で参加していたんです。
 私は最後の三年間、文治師匠は入院していましたんで、昼間は病院と寄席へ通って、夜は“ギャンブル研究会”へ行くという生活をおくっていましたから、私が改まって、
「ごめんください」
 って、志ん朝師匠の家へ入ると、師匠もおかみさんも妙にそわそわしててね、おかしかったですよ。で、私の習性になってたんですねえ、つい、兄弟子や師匠にお茶をいれれ出したりするもんだから、兄弟子が、
<何で文太は、志ん朝師匠の台所のことまで知ってるんだ?>
 というような目で見るんです。あれには参りました。
 結局、その場で志ん朝師匠の弟子になることができまして、その日の夕方に師匠が、これから幹部連中に、お前を引き取ったことを報告に行くから、車の運転をしろ」
 と言うんで、さっそく二人で出かけました。
 最初に行ったのは、先代の林家正蔵師匠の家で、あとは順に回っていきました。どこも、
「あそう、頑張りなさいよ」
「今後ともよろしくお願いいたします」
 と簡単な挨拶で終わるんですが、馬生師匠(十代目)のところがやたらと長いんですよ。
<まあ、兄弟だから、積もる話があるんだろう・・・・・・>
 と車の中で待っていたんですが、それにしても長いんです。
<どうしたのかなぁ?>
 と思っていると、やっと師匠が戻ってきたんですが、助手席に座って腕組みをしたまま、何か考えてるんですよ。私が、
「何かあったんですか?」
 と尋ねると、師匠は、
「お前なえ、名前を変えなきゃ駄目だ」
 って言い出したんです。私は桂文治の弟子なので文太って名乗ってたんですが、それじゃあ駄目だって言うんです。
「文太ってのはお前らしくていい名前なんだけど、今、兄貴に『預かりなのか、弟子にしたのか?』って聞かれて、『弟子にした』って言ったら、『だったら、古今亭を名乗らなきゃあいけない。預かりだったら文太でもいいが』って言われたんだ。俺も兄貴の言う通りだと思ったから、お前も何か名前を考えておけよ」

 今、この時、馬生と志ん朝の話が長引いたのは、才賀の名前のこともあっただろうが、もしかすると、すでにあの落語協会分裂騒動のことが関わっていたのかもしれない。


 wikipwdia「落語協会分裂騒動」から、時系列を振り返る。
Wikipedia「落語協会分裂騒動」

 協会理事会がもめたのが、1978年5月8日。
落語協会では再び二つ目の落語家が滞留しつつあった。そこで会長の小さんと常任理事の三遊亭圓歌(3代目)、三遊亭金馬(4代目、のち2代目金翁)、春風亭柳朝(5代目)は、1978年5月8日の落語協会定例理事会で、同年秋に10名を真打昇進させることを提案した。6年前の理事会で20名の昇進を決めた時と同様、最高顧問の圓生は「安易に昇進させるべきでない」と反対したが、またも賛成多数で可決された。
 すると圓生は、上記の常任理事3名を解任し、若手の理事3名(圓楽・談志・古今亭志ん朝(3代目))を常任理事に昇格させるよう要求した。いずれも圓生派である。しかし会長の小さんは、圓楽ら3名の登用は認めたものの圓歌ら3名の解任は拒否し、常任理事を3名から6名に増やすことで対応しようとした。圓生はその日のうちに落語協会脱退を決意した。
 そして、圓生が弟子たちに教会脱退を告げたのが、5月12日。
圓生は5月12日に惣領弟子の圓楽を除く弟子たちを集め、落語協会を脱退することを伝えた。しかし、この時点では、一部の弟子にしか新団体のことを知らせておらず、圓生が単独で脱退し、弟子たちは落語協会に全員残留し、真打になっていない者と特に希望する者は圓楽の弟子となるようにと伝えていた。一門全員で脱退して新団体を設立するという話が圓生門下の全員に知らされたのは3日後の5月15日のことであった。このような秘密主義は、それでなくとも好き嫌いに応じて弟子への処遇を使い分けてきた圓生のかねてからの態度とも相まって、弟子たちに「師匠から信用されていないのではないか」「自分だけが実状を知らされていないのではないか」という動揺と混乱をもたらし、一門のなかで互いに疑心暗鬼を生じさせることになった。

 その後、新協会に誰を誘うかなど水面下の動きがあり、赤坂プリンスホテルの会見が5月24日。
圓生の提案を否決した定例理事会が行われた16日後の5月24日に、圓生は、東京都港区の赤坂プリンスホテルで、圓楽、志ん朝、圓蔵、圓鏡とともに記者会見を開き、落語協会を脱会して、第三の団体「落語三遊協会」を設立することを発表する。圓生は、脱会して新団体設立に至った理由として「真打の乱造による落語の質の低下」を問題として挙げた。当時そうした落語の質の低下が嘆かれていただけに、圓生の訴えは落語ファンだけでなく一般人の心も掴み、小さんら落語協会執行部に対する批判が噴出した。

 しかし、その後どうなったのかは、歴史が示す通り。


 才賀の入門挨拶のことに戻る。

 次に駒込の志ん馬師匠(六代目)の家へ行って挨拶が終わると、師匠に、
「ちょっと話があるから、お前、車の中で待っとけ」
 と言われたんで、ぼんやりと待っていたんですが、退屈なんで新しい名前を考えていたんです。ああでもない、こうでもないと考えているうちに、
<そうだ、志ん朝の“朝”に、師匠の本名が美濃部強次だから“次”の一字を頂いて“朝次”にしよう>
 って決めちゃったんですよ。

 そして、九代目文楽宅に行く途中の会話で、朝次という案を話すと、志ん朝が「クサイねえー。朝次か・・・・・・。すばしっこい巾着切りみたいでいいねえ」と褒められ、十五分で、古今亭朝次が誕生した。

 本書では、あの分裂騒動を振り返る弟子たちの言葉がある。
 才賀を含め、こんなことを語っていた。

才賀 あの騒動の時、私は志ん朝師匠の弟子になったばかりだったけど、うちの師匠と圓楽師匠と談志師匠の三人が話し合うことになってたの。先に圓楽師匠がやってきて、師匠と二人で話してて、
「談志はトップになりたがってるから、『あいよ』って朝さん言わないでくれよ。俺が全部話すから」
 圓楽師匠の言葉は、圓生師匠の言葉だと思うけど、その間師匠は、
「うん、うん」
 って頷いてました。結局、談志師匠はこなくて、二人でバカ話をしていましたけどね。
志ん五 その後だと思うけど、談志師匠からうちのい師匠に電話がかかってきて、
「圓生師匠は朝さんを会長にするって言ってるんだけど、どう思う?」
 って聞いてきて、うちの師匠は、
「いいんじゃないか」
 って答えたんだけど、談志さんにとっては予想外の展開になっちゃったんじゃないかな?
八朝 そこんとこも真打の時と同じだものね。
才賀 だから自分だけさっさと戻ったんでしょ。
八朝 談志師匠は川戸貞吉さんとの対談で、騒動の時自分が抜けた理由を色々言ってるけれど、要はうちの師匠をダシにして、そのことを正当化してるだけだよね。あの時のことは、伯楽(金原亭)さんが本にしてるけど(『小説・落語協団騒動記』)、あれが本当じゃないかな。

 伯楽の本については、ずいぶん前に紹介してことがある。
2010年5月24日のブログ

 5月24日の会見について、偽名で書かれた部分を引用している。

 昭和53年(1978)は、私が大学を卒業して社会人になった年だ。

 あの会見における志ん朝の苦し気な表情が、印象的だった。


 きっと、才賀の志ん朝入門は、5月8日の理事会の前なのだろう。

 しかし、火のないところに煙は立たない。

 きっと、圓生の反論を想定して、当時の副会長馬生と志ん朝が、何か相談していたことは、ありえる。

 とはいえ、すべて想像の範囲。


 桂才賀が、“ギャンブル研究会”での縁から志ん朝門下になった頃、まさに、志ん朝一門が、その後のそれぞれの噺家人生を左右する圓生のギャンブルに巻き込まれることになったのであった。

Commented by ゆう at 2025-03-02 17:55
幸兵衛さんは才賀さんの高座は伺ったことありますか?
私は小さい頃に笑点に出てたイメージが強く、上京して落語が好きになり各寄席の番組表を見たりしても偶然かもしれませんがあまり才賀さんの名前は見かけませんでした。
刑務所慰問のエピソード本を先日面白く読みましたが、一度生で高座を聴いてみたかったです。
あの威勢の良さで演ってたんでしょうかね?
Commented by kogotokoubei at 2025-03-02 19:12
>ゆうさんへ

コメントありがとうございます。
2月24日の記事で書いたように、生の高座は何度か縁がありました。
まさに、あの勢いのある高座でしたよ。
名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by kogotokoubei | 2025-02-26 13:36 | 落語家 | Trackback | Comments(2)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28