河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(12)
2025年 02月 25日
これが、大ヒットとなり、蔦重も花の井改め瀬川も、面白いと思ったほど。
また、瀬川の客で、鳥山検校が登場。
そして、前の週、脅されて西村屋の吉原細見を扱いそうになっていた吉原の主人(亡八)たちを蔦重が罵倒していたが、彼らにも意地があったことを示す場面があった。
老舗の地本問屋たちは、亡八たちに、鱗形屋が復活したので蔦重が地本問屋仲間に入ることは許されない、と言う。
蔦重は、出版は吉原のことに限り、細見はただで渡すから仲間に入れてくれと言う。
地本問屋の一部の者が、その条件を受け入れそうな雰囲気になり、他の地本問屋を部屋から出した鶴屋。
亡八たちに、「吉原者は卑しい外道、市中に関わらないでほしいと願う方々がいる」と酷いことを言った。
蔦重がその人々と直接話をさせてほしいと頼むと、鶴屋は笑みを浮かべて答える。
「皆さま、吉原の方とは同じ座敷にもいたくないって具合でして」
もう、我慢の出来ない、亡八たち。
激高した駿河屋市右衛門が鶴屋を座敷から引きずり出し、階段の下に放り投げた。
階下にいた西村屋が下敷きになり、鱗形屋が慌てている。
市右衛門は「俺だってあんたらと同じ座敷にいたくねぇんだわ」と言い放った。
この時期は、蔦重の店は、まだ、吉原五十間道にあった。
鱗形屋はじめ鶴屋や西村屋がある日本橋は、かつて旧吉原があった地。
吉原を支えている仲間への強い絆があったことを示した回だった。

河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)
さて、少し時間が空いたが、河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の十二回目。
同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。
副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。
<目次>
□はじめに
□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり
□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨
□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す
□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝
□おわりに
今回から、第二章「田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨」に進む。
「べらぼう」よりは、少し先に進むことになる。
いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。

杉浦日向子『江戸へようこそ』

冒頭から。
狂歌の大ブームと吉原外交で作家・絵師の人脈広げる
重三郎の活躍した田沼意次の絶頂期は、身分を超えて文芸にたずさわる武士や町人、老若が交じり合う文化サロンがあった。サロンには、少数ながら女性も参加している。
たとえば天明四年(1784)、「不忍池に近い寺院で手拭合の会が開催された。これは手拭の図案を披露し合う遊び」(佐藤至子著『山東京伝ー滑稽洒落第一の作者ー』ミネルヴァ書房)の会であり、「出品された図案は京伝が写し取り、詞書を添えて『たなぐひあはせ』という本にまとめられた」(前掲書)が、その会には松江藩主松平治郷(はるちか)の弟衍親(のぶちか)、姫路藩主酒井忠以(ただざね)、そしてその弟。忠因(ただなお)(後の酒井抱一)などが参加したといわれ、さらに「戯作者のほか遊女・狂言作家・歌舞伎役者・力士・芸者などの名前も見える」(前掲書)という。このように身分を超越して老若男女が知的遊びを楽しむ場が存在したのである。
殿様やその親族に遊女や芸者も交じって手拭の図案を競う、そんなサロンがあったことに、驚かされるではないか。
ちなみに、酒井抱一は、尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった人物。
引用を続ける。
上下関係が厳しい封建社会というのはあくまで建前であって、当時は文才や画才、知識の豊富さなど、実力がものをいう不思議な空間があったのだ。
蔦屋重三郎が版元として一代で成り上がることができたのは、こうした人びとと親密かつ広範な信頼関係を構築し、喜んで執筆や作画を引き受けさせたからに他ならない。
ひとえに広い人脈づくりが、事業の成功につながったのである。
重三郎にとって格好な人脈づくりの場が、前述の狂歌の連だった。
連というのは、簡単にいうと愛好家たちの集まりのこと。もともと江戸では俳諧連が盛んであったが、この時期、狂歌の流行によって、江戸の各地に狂歌連が誕生していった。
連と言う言葉で思うのは、阿波踊り。
私が住む町でも、夏になると、いろんな土地から数多く〇〇連の人たちが集まる。
愛好家たちの集まり、という意味では、落語愛好家の集まりである我が居残り会も、居残り連、と言えるかもしれない。
なお、杉浦日向子さんは著書(『杉浦日向子の江戸塾ー笑いと遊びの巻ー』)の対談で、「連」のことを「知のファクトリー」と形容している。
言い得て妙である。
さて、狂歌は、滑稽や諧謔を盛り込んだ和歌である。
もともと万葉集の時代から戯れごとを詠んだ和歌は存在し、連綿と受け継がれていた。
江戸前期では、まず京都で流行り、その後浪花狂歌が大坂で流行した。
江戸に狂歌が入り込むのは、明和年間(1764~1772)のこと。
幕臣の唐衣橘洲(からころもきっしゅう)が自宅で数人の狂歌会を主催したのが始まりと言われる。
そして、天明年間になると、「天明狂歌」と言われる爆発的なブームを迎える。
そんな狂歌界をリードしていたのが、唐衣橘洲に四方赤良(大田南畝)と朱楽菅江を加えた狂歌三大人、さらには平秩東作(へづつとうさく)、元木網(もとのもくあみ)、智恵内子(ちえのないし)(木網の妻)といった狂歌師たちであった。三大人はいずれも武家出身であり、当初はこうした武士たちが中心になって江戸の天明狂歌を牽引していった。安永年間(1772~1781)からは、町人出身の狂歌四天王(宿屋飯盛-やどやのめしもり-、鹿都部真顔-しかつべのまがお-、頭光-つむりひかる-、馬場金埒-ばばきんらち-)が第二世代として江戸狂歌を盛り上げていく。
「べらぼう」では、これまでに山師の顔もある平秩東作のみ登場した。
しかし、蔦重にとって重要な狂歌師は、何と言っても四方赤良である。
二人の交流については、次回。
23日の「べらぼう」で少し気になったのは、言葉遣い。
以前、杉浦日向子さんの『お江戸でござる』から紹介したように、松葉屋では接尾語に「ありんす」を使わない。
「おす」を使う。
2025年1月15日のブログ
蔦重の細見効果で瀬川に多くの客が殺到し、こなしきれない客を松葉屋の他の女郎たちが対応するのだが、「ありんせん」という言い方をしていた。
松葉屋は、「ありんす」は使わないが、否定語の「ありんせん」は使ったのかどうか。
それとも「おせん」なんて言ってたか・・・・・・。
これは、もう少し研究(?)が必要かもしれない。
