河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(10)
2025年 02月 11日

河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)
少し時間が空いたが、河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の十回目。
同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。
副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。
<目次>
□はじめに
□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり
□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨
□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す
□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝
□おわりに
引き続き、「蔦重の原点は吉原にあり」から。
いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』巻末の「年号早わかり表」をお借りする。

杉浦日向子『江戸へようこそ』

9日の「べらぼう」では、鱗形屋の不祥事が放送された。
字引「節用集」の盗作が露見したわけだが、前の記事で本書からご紹介したように、手代の徳兵衛の犯罪ではなく、孫兵衛自らも関わる会社ぐるみの悪事として描かれた。
ともかく、これで蔦重にチャンスが巡って来た。
では、耕書堂はその後どんな出版活動をしていたのか。
重三郎の発行する本は、最初の三年間ほどは吉原細見や遊女評判記が圧倒的に多く、生まれ育った強みを活かして遊廓を飯の種にしていた。とくに吉原細見のような定期刊行物(春秋二回刊行)は、収入が定期的に入ってくる手堅いジャンルであった。
だが、特定の分野だけに頼っていては、それがダメになったとき、経営が傾いてしまう。
そこで安永六年の『夫婦酒替奴中仲(みょうとざけかはらぬなかなか)』(中村重助著)を皮切りに富本節の本を次々と刊行していったのである。この時期、人形浄瑠璃の三味線音楽である富本節が大流行していた。二代目富本豊前大夫(ぶせんだゆう)の美声が話題となったのがきっかけだった。武士の間にも広まり、富本節のうまい町人の娘などは、安易に武家に奉公できたといわれたものだ。
ブームに着目した重三郎は、富本節の正本(浄瑠璃の台本)や稽古本を次々と出版していった。
というのは、浄瑠璃は歌舞伎同様、次々と新作がつくられる世界だったので、新作を追加して改訂という形で定期的に富本節の本を出版できる仕組みになっていたのだった。
少し、落語のこと。
富本節というと、落語では、円朝の『真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)』に登場する豊志賀が富本節の師匠だ。
清元は、富本節から興されその後富本節を凌ぐ人気を得る。落語『包丁』に、清元の師匠が登場する。
「東京大学デジタルアーカイブポータル」に、『夫婦酒替奴中仲』の画像があるので表紙を拝借。
「東京大学デジタルアーカイブポータル」の該当ページ

さて、富本節の正本の他には何を出版したのか。
さらに安永九年からは『大栄商売往来(だいえいしょうばいおうらい)』、『新撰耕作往来千秋楽』といった往来物の刊行を開始する。
往来物とは、主に寺子屋などで手習いに使う教科書のこと。平安時代末の『明衡(めいこう)往来』が最古だといわれ、手紙の往復形式になっている。室町時代に成立した『庭訓(ていきん)往来』は、二十五通の往復書簡からなり、一般常識が学べるようになっていて、江戸時代にも用いられた代表的な往来物だ。
背景には庶民の教育熱の高まりがあった。
定期的に往来物を刊行することは、安定的な収入につながった。
江戸時代に刊行された往来物は約700種に及ぶと言われる。
江戸時代の識字率は世界一だったと言われる。
ロンドンで約20%、江戸は50%とも70%とも言われる。
Wikipedia「往来物」から引用。
Wikipedia「往来物」
江戸時代以降
江戸時代に入ると、『庭訓往来』のような既成の往来物に加えて新たな往来物が目的に応じて著されるようになった。農村向けのものとしては農事暦の要素を織り込んだ『田舎往来』・『農業往来』・『百姓往来』などが、都市の商人向けのものとしては『商売往来』・『問屋往来』・『呉服往来』・『万祥廻船往来』などが代表的な往来物としてあげられる。『富士野往来』に始まる歴史物語を織り込んだものは「武家往来」とも呼ばれ、十返舎一九が伝記型の往来物を確立し、更に史詩型の往来物へと発展した。また、子供達の関心を呼ぶために他地域の地理や風物・物産などを織り込んだ往来物も作られ、『日本国尽』・『都名所往来』・『浪花往来』・『中仙道往来』、そして明治維新期には『世界風俗往来』まで作成されるに至った。
日常生活に必要な実用知識や礼儀作法に立脚した往来物は、識字率を高めるなど近世までの日本の高度な庶民教育を支える原動力となったものとして、日本の教育史上高く評価されている。
個人的には、現代の日本の小学校で、ぜひ、この往来物の現代版を採用してはどうか、などと思っている。
さて、こうして、吉原細見、富本正本、往来物という柱ができたわけだが、重三郎の挑戦はまだ続く。
