福田利子著『吉原はこんな所でございました』から、ある歌のことを思う。
2025年 01月 16日
2014年6月に書いた記事だが、事情により、あらためて公開。
吉原には、いくつかの転換期があった。

福田利子著『吉原はこんな所でございました』(ちくま文庫)
吉原の茶屋松葉屋の女将さんだった福田利子さによる『吉原はこんな所でございました』から。
明治に入って間もない頃のある事件のこと。
マリア=ルース号事件と貸座敷
徳川の世が終わり、明治時代に入りましても、吉原遊郭はそのままの形で残りました。けれども、文化発祥の地としての活力が失われたというのがやはり本当のようで、新しい時代の風が廓の中にも入ってきました。
マリア=ルース号事件は、まさにそうしたものの表われのように私は思います。
マリア=ルース号というのは、ペルーの汽船なのですが、清国(中国)から奴隷を買い、帰国の途中、太平洋で暴風雨に遭い、船が破損してしまいました。それで船の修理をするために横浜港に入港したのですが、そのとき奴隷の一人が船を脱出して、イギリス軍艦に救いを求めたのでした。
奴隷に逃げられたペルー側は、イギリスの軍艦に、すぐに身柄を引き渡すように要求し、引き渡すことができないというイギリス側と、引き渡しを迫るペルーとの間に裁判が開かれることになりました。場所が横浜でしたので、日本がその裁判を引き受けることになったのですが、そのときの特別裁判長、大江卓は「奴隷売買は国際法違反」という判決を下し、中国人の身柄は本国に戻されることになりました。
ところが、これがペルーと日本との外交問題にまで発展しまして、ペルーの弁護士は「日本が奴隷契約が無効だというなら、それよりもっと酷い目にあっている日本の娼婦のことは一体どうするのだ」と国際裁判で述べたのでした。ところが大江卓はすかさず「日本ではただ今、公娼解放の準備中である」と答え、突如、明治5年10月2日、「娼婦解放令」が発令されたのでした。
Wikipediaによると、この「娼婦解放令」、正式には「人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件(じんしんばいばいをきんじしょほうこうにんねんげんをさだめげいしょうぎをかいほうしこれについてのちんしゃくそしょうはとりあげずのけん)、通称芸娼妓解放令(げいしょうぎかいほうれい)と言われる。
Wikipedia「マリア・ルス号事件」
「禁し」は「禁じ」、「取上ケスノ件」は「取上げずの件」・・・点は打ってなくても濁って読む、まるで『道灌』の科白だ^^
要するに、人身売買を禁じ、身代金によって年季奉公している人を解放し、当人の借金は支払う必要がない、と定めたわけだ。
さて、この「娼婦解放令」は、吉原にどのような変化をもたらしたのか。本当に“解放”されたのか・・・・・・。
解放令が出されたというので、遊女たちは喜んで、さあこれで親許に帰れる、と言いながら支度をし、われがちに外に出ようとしたものですから、大門は大混乱になったそうで、そのときの様子を写した写真を私は見たことがあります。
けれども、故郷で暮らしていけないからこそ吉原に来た人たちですから、帰ったところで喜んで迎えてもらえるはずもなく、故郷を出たまま行き倒れになる娘やら、多くの娘が私娼になるやらで、政府は慌てて、吉原、新宿、品川、板橋、千住の五か所を公娼地区として認めることにしたのでした。ただし、その公娼制度も自由営業の名目で認めることになっていましたので、それまでのように娼婦の身体を縛るのではなく、営業したい娼婦に場所を貸す、ということにし、それまでの“遊女屋”が“貸座敷”と呼ばれるようになり、貸座敷制度が生まれたのでした。
妓楼の主と花魁との関係は、身代金制度によって成り立っていましたが、それからは金銭貸借関係—貸し手と借り手の関係になった、ということでございます。
マリア=ルース号事件によって、
遊女屋→貸座敷
身代金制度→金銭貸借関係
という転換期を吉原は迎えることになった。
明治23年生まれの古今亭志ん生が、廓噺の中で「貸座敷」と言うのは、こういう歴史的背景があったことを初めて知った。
次の吉原の大きな転換期は、敗戦後に訪れた。
昭和21年1月、日本の公娼制度にかかわる一切の法規は廃止するように、というお達しが連合軍最高司令部の名で出されました。日本の公娼制度は民主主義の精神に反するというわけなのですね。占領軍が出す命令はすべて受け入れなければならない占領下でしたから、このお達しによって日本の公娼制度はすぐに廃止されることになりました。明治5年の、あの“マリア=ルース号事件”のときの「娼妓解放令」以来、二度目の廃止命令ということになります。
けれども、このとき警視庁では、公娼制度が廃止されるのはいいとして、それにかわって私娼が増えるのではないかと心配しました。公娼制度ですと、健康診断や性病予防など、国としての健康管理ができますが、私娼ではそれができませんので、性病が増えるんじゃないかというんですね。
それで、公娼制度が廃止されたあとの風俗対策として、“病気をうつすおそれのある者の健康診断や病人に対する治療を地方長官は命令することができる”、それから“特殊飲食店を指定し、風致上さしさわりのない場所に限って集団的にこれを認める”という方針が打ち出されたのでした。
かつて“貸座敷”といあれていたろことが“特殊飲食店”となったというわけです。お客相手の仕事をする人は、“花魁”ではなく、“ウエートレス”ということでしょうか。とにかくそうした正業というのを一応、表向き、もたなければならなかったんです。それまでの「貸座敷組合」が「カフェー共同組合」になったのは、こうした理由からでした。
警視庁では、“風致上さしさわりのない場所”として、吉原をはじめ、新宿、洲崎(深川区平久町、現江東区)、なとを指定し、そこを地図の上に赤線で囲み、“赤線”という言葉が生まれたのでした。“遊郭”から“赤線”になったわけですね。
これが、遊郭から赤線へ、貸座敷からカフェーへの転換だ。
この転換期によるもっとも大きな変化は、一気に吉原の女性が増えたこと。そして、赤線以外にも、さまざまな女性が“食べるため”に流れてきた。
街角にはまた、戦前にはなかった“闇の女”とか、“パンパン”とよばれる人たちが立つようになりました。
(中 略)
もともとは、店にも組織にも属さない自由売春でしたが、自然に群れをつくるようになって、縄張りもできてきました。群れの中からボスが生まれ、規則のようなものもでき、それを犯すと、仲間からリンチを受けるということになったのだそうです。
そのへんのことを田村泰次郎さんが『肉体の門』という小説で描き、それが映画や劇にもなって、大変な評判になりました。
歌謡曲では、菊池章子が歌った『星の流れに』が大ヒットし「こんな女に誰がした」の歌の一節は、今日でも口にする人がいます。なんでもこの歌は、奉天から引き揚げてきた元看護婦の投書から生まれたものなんだそうです。その看護婦がやっとの思いで敗戦の日本に帰ってきたところが、空襲で家がなくなっていて、家族の消息もわからず、食べ物もなく、仕事も見つからず、闇の女になるほかなかったという事情を書いて、新聞に投稿したのでした。その投書を新聞で読んだ作詞家の清水みのるさんが心を打たれ、徹夜で詞を書き上げたといわれています。
実際、女の人が街娼になったいきさつは、この『星の流れに』のような場合が多かったそうで、家族を養っていた人も二割近くいたと聞いています。
この部分を読んで、どうしてもこの歌『星の流れに』について書かずにはいられない。
この歌が出来たいきさつを少し補足したい。
田端義夫の『かえり船』などの代表作を持つ作詞家清水みのるが、昭和21年のある夜、新宿駅近くの安酒場で東京日日新聞(現在の毎日新聞)を読んでいて、読者欄に目がとまった。
戦地で従軍看護師だった女性からの投書で、題は「転落するまで」とあった。中国の奉天から、着の身着のままで引き揚げてきた彼女は、両親を失い頼る人もなかった。さ迷い歩いて辿り着いたのは上野駅の地下道。3日間、食べるものもなく餓死寸前のところへ、男がやって来て握り飯を差し出した。翌日も同じことがあり、男から「話があるから」と公園へ誘われた。「それ以来、私は『闇の女』と人からさげすまれるような商売に落ちてゆきました・・・・・」という引き揚げから3ヶ月間の出来事が淡々と書いてあったらしい。
清水は何度も読むうちに怒りがこみ上げてきた。そして一気に書き上げた詩が、あの名曲。
本当は「こんな女に誰がした」という題名の予定だったが、GHQから横やりが入り替えたらしい。当初は淡谷のり子に歌ってもらおうとしたが売春婦の歌は嫌だと断られ、菊池章子が歌うことになった。
歌詞の一番のみ確認しよう。
星の流れに
作詞:清水みのる
作曲:利根一郎
歌:菊池章子
星の流れに 身をうらなって
どこをねぐらの 今日の宿
荒む心で いるのじゃないが
泣けて涙も かれ果てた
こんな女に誰がした
この歌は、私の結婚式の仲人もしていただいた、亡くなった大学の恩師の十八番だったので、とりわけ思い出深い。
あらためて、素晴らしい反戦歌だと思う。
私は反戦という市民活動においては、大きな声で訴えるばかりではなく、優れた反戦歌の存在も重要だと思う。
たとえば、私が好きなアメリカのロックバンド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)の「Who'll Stop The Rain」だ。
この歌の“Rain”は雨ではなくベトナム戦争で米軍が大量に投下したナパーム弾を意味する。
イントロが流れた途端にゾクっとくる名曲だ。
また、マーヴィン・ゲイの“What's Going On”も、ベトナム戦争に従軍した弟から戦場の実態を聞き、マーヴィンが作った見事な反戦歌である。
この二曲とも大変に美しい曲。
『星の流れに』は、紹介したアメリカのベトナム戦争を対象にした歌とは、もちろん趣きは違う。日本的な抒情に満ちた歌である。しかし、その歌の背景を知ることで「こんな女に誰がした」の言葉が訴えることは明白である。フォークソング『花はどこに行った』に近いものがあるかもしれない。
これらのいずれの歌も美しい旋律とともに、今に残る名曲である。
そうなのだ。反戦歌の名曲は、どれもが美しい。
その反戦歌が、残念ながら必要な時である。
今ではなかなか想像ができないのだが、かつては、食べるために、あるいは家族を養うために、他に方法がなく吉原などの赤線や街娼として働かざるを得ない女性達がたくさんいたという歴史は忘れてはならないだろう。
そして、もし今でも戦争に巻き込まれたら、同じような不幸の歴史が繰り返さないとも限らない。
吉原の大きな転換期を辿るうちに、つい横道にそれてしまったが、お許しのほどを。
(♪こ~んな~男に~誰がした~、という恩師の歌声が聞こえてくる・・・・・・)
東京へ行っても吉原遊郭跡へは行ったことないなと検索すると、人形町辺りにあったんですね。人形町は、昔ビジネスホテルの住庄ほてるへ仕事で泊まったことがありました。泊まっただけで、散策もしていません。
吉原というと、木曜時代劇の「吉原裏同心」で遊女の様子などが描かれていましたね。好きなドラマでした。このドラマで山内くんが注目されて、のちに「あさが来た」に近藤正臣さんや野々すみ花さんと出演される事になりましたが。
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009050233_00000
大河ドラマは見ていませんが、写楽展等浮世絵展もいつの間にか見に行くようになりました。蔦屋重三郎が版元だったんですね。
お久しぶりです。
そうでしたか。
日本橋や人形町は、落語会によく行っていた時期に散策したものです。
今年、久しぶりに大学の同期会があるのですが、一番忙しい9月の開催というころで、残念ですが不参加としました。
ブログなどで、近況をご連絡します。
大坂の坂を一緒に歩いたことが、懐かしいです。
