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河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(4)


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河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)

 河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の四回目。

 同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。
 副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。

 <目次>
□はじめに
□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり
□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨
□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す
□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝
□おわりに

 引き続き、「蔦重の原点は吉原にあり」から。

 今回も、田沼意次のこと。

 前回は、八代目将軍吉宗に父の意行(おきゆき)が重用されたこと、そして、その流れで九代目将軍家重から意次も目をかけられて、老中と側用人という重要な要職を兼ねることになったこと、そして、家重の遺言で引き続き十代目将軍家治にも意次が重く用いられたことをご紹介した。

 では、大臣と首相主席秘書官を兼ねるような実験を握った意次は、どんな政治を行なったのか。

 農本主義からの脱却を目指した田沼政治

 田沼意次が主導した幕政は、これまでの幕府の方針とは大きく異なっていた。
 農村からの年貢を主財源として財政を運営する農本主義を大きく転換したのである。株仲間と呼ばれる商人や職人の同業者組合を積極的に公認し、株仲間の営業や流通上の独占権を認めるかわりに、運上(うんじょう)・冥加(みょうが)と称する税を納入させるなど、商業資本からの収入を得ようとしたのだ。
 これより前、八代将軍・吉宗の享保の改革によって幕府の財政は好転した。質素倹約を徹底して支出を抑え、農民たちに大幅な増税をおこなって収入を増やしたからだ。しかし、しばらく経つとまた、財政は逼迫するようになっていった。けれど今度はもう、農村をあてにするのは難しかった。吉宗の時代、農村から搾るだけ搾りとったので、これ以上はの増税は百姓一揆を誘発するだけで、へたをすれば政権を揺るがしかねない事態に発展する危険性もあった。

 この時期の一揆で有名なのが、郡上一揆(ぐじょういっき)。
 美濃国郡上藩(現岐阜県郡上市)で発生した大規模な一揆だ。

 延宝五(1677)年から天和三(1683)年にもあったが、宝暦四(1754)年から同八(1758)年にも郡上で一揆があった。

 田沼意次は、家重によって宝暦八(1758)年、この一揆に関する裁判にあたらせるために、御側御用取次から一万石の大名に取り立てられている。

 出世の機会でもあったし、田沼の政策にとっても大きな転機だった。

 Wikipedia「郡上一揆」から引用する。
Wikipedia「郡上一揆」

裁判の結果、郡上一揆の首謀者とされた農民らに厳罰が下されたが、一方領主であった郡上藩主の金森頼錦は改易となり、幕府高官であった老中、若年寄、大目付、勘定奉行らが免職となった。江戸時代を通して百姓一揆の結果、他にこのような領主、幕府高官らの大量処罰が行われた例はない。また将軍家重の意を受けて郡上宝暦騒動の解決に活躍した田沼意次が台頭する要因となり、年貢増収により幕府財政の健全化を図ろうとした勢力が衰退し、商業資本の利益への課税が推進されるようになった

 「べらぼう」は、すでに郡上一揆の後の時代を描いているが、田沼意次にとって、この一揆は自分自身の栄達と、農本主義から重商主義への転換を目指す大きな分岐点だったと思う。

 引用を続ける。

 そこで前述のように、田沼意次は人々の商活動から得た売り上げに税をかけることを推し進めたのだ。
 さらにこれ以外にも、意次はさまざまな政策を進めていった。
 明和八年(1771)、ロシアに捕らわれカムチャッカに流罪となっていたベニョフスキー(ハンガリー人)が仲間たちと軍艦を奪って脱走した。そして、逃走中に土佐や阿波に寄港したが、このおり、「ロシア軍が来年、蝦夷地(現・北海道)へ襲来する」という情報をもたらしたのである。
 それは単なるデマに過ぎず、何とも人騒がせな異国人だったが、この話に触発された仙台藩の江戸藩医・工藤平助は、『赤蝦夷風説考』を書き上げた。そこには、伝聞をもとに「ロシアは交易のために蝦夷地に接近しようとしている。ロシアの南下に警戒するとともに蝦夷地に金銀山を幕府が開発・経営し、ロシアの求めに応じて貿易すれば、大きな利益を得ることができる」と記してあった。平助はこの『赤蝦夷風説考』を意次に献上したのである。
 同書を読んで喜んだ意次は、なんと、ロシアとの交易を企画するようになったのだ。よく知られているように、幕府は当時、オランダや清、朝鮮以外の国とは通商や通交を厳しく禁じていた。つまりこれは、幕府の外交方針の大転換だといえる。

 家康以来の伝統にしがみつく保守派が周囲にいる中で、こんな大胆な政策転換を進めようとしたのである。

 意次の業績の一つとして、貨幣制度の一本化に取り組んだことも忘れてはならないだろう。
 東日本と西日本で統一されていなかった貨幣制度を一本化している。東日本は、金を計数貨幣(両・分・朱という単位が決まっているお金)に鋳造して用いていた。対して西日本では銀貨が使われていたが、それは秤で量って使用するという秤量(しょうりょう)貨幣であった。
 この不統一と金銀交換の煩雑さを解消し、東西間の経済活動を活発化させようと考えたのだ。具体的には、南鐐(南陵)二朱銀(八枚で小判一枚と交換できる銀貨)と称する計数銀貨を大量につくって流通させ、金を中心とする貨幣制度への統一をこころみたのである。
 このように田沼政治は、これまでの幕政とは根本的に異なる、気宇壮大なものだたことが理解できるだろう。

 もちろん、老中と側用人を兼ねる、今なら、大臣と首相秘書官を兼ねるような強大な実験を握っていたから出来たともいえるが、何もせず、権力の座に居座って楽をすることだってできたはずだ。

 もし、意次が、反対派からの情報操作もあって後世に流布されたような悪徳賄賂政治家であったのなら、こんな困難な税制改革や政策転換などに挑戦することはなかったに違いない。


 江戸時代の付け届け(≒賄賂?)は慣例でもあり、それがお中元やお歳暮として今に残っている。

 田沼時代に、武士の気風は衰え、利権をめぐって役人と商人との癒着も増え、結果として賄賂が増えたということは言えるのかもしれないが、必ずしも、意次自身が多額の賄賂で私腹を肥やしたとは言えない。

 一歩譲って、意次が賄賂による蓄えが多かったとしても、彼は旧弊を打破する政治を行ない成果もあった。

 はたして、今の世で、裏金で私腹を肥やしている政治家は、旧弊を打破する政治的な活動をしているのか。


 「改革」という言葉は使われるが、あまりに安直に使われていて、その言葉の持つ力を失いつつある。

 あえて言えば、田沼意次のような政策こそが、改革の名にふさわしいように思う。

 しかし、日露交易も蝦夷地開拓も、意次の失脚で、実現することはなかった。

 さて、次回は、江戸時代の出版の仕組みについてご紹介予定。

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by kogotokoubei | 2025-01-16 12:57 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛
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