立川ぜん馬を偲ぶ。
2024年 12月 11日
76歳。
日刊スポーツから写真を含め引用。
「日刊スポーツ」の該当記事
落語家立川ぜん馬さんがうっ血性心不全で死去、76歳 立川流一門会のXが伝える
[2024年12月9日16時59分]
落語立川流一門会情報の公式X(旧ツイッター)が9日、更新。六代目立川ぜん馬(本名・三須秀海=みす・ひでみ)さんが76歳で亡くなったと伝えた。
「【訃報】一般社団法人落語立川流所属の立川ぜん馬(本名・三須秀海)が、令和6年12月8日(日曜日)うっ血性心不全のため、永眠いたしました(76歳)」と書き出した。続けて「葬儀は近親者のみにて執り行われ、後日『お別れの会』が予定されております。謹んでご冥福をお祈りいたします」と締めくくった。
六代目立川ぜん馬さんは東京都世田谷区出身で明大卒業。71年1月に七代目立川談志に入門。前座名は立川孔志だった。82年12月に真打ちを襲名後、83年に師匠と共に落語協会を脱退。落語立川流のAコース真打となり現在に至る。
同門の立川談四楼(73)はXで「立川ぜん馬、ついに逝く。享年76。師匠孝行だ。談志より1年多く生きた。医師が奇跡と呼んだ、出るはずのない声をよく出して奮闘した。稽古では私の弟子も世話になった。寸志など『中村仲蔵』は財産だと言っている。5月の伝承ホール、らく兵の披露目の会が最後だった。よく闘った。ゆっくり休んでくれ」と追悼した。
立川生志(60)は「昨年の家元十三回忌追善公演の楽屋にてぜん馬師匠と。本当に長いことお世話になりまして有難うございました。どうぞ安らかにお眠りください。生志拝」とつづり、生前のぜん馬さんとのツーショットを公開した。
談志の四番目の弟子だった。
ちなみに、次のような順番。
十代目土橋亭里う馬 ・立川左談次・立川談四楼・六代目立川ぜん馬・立川龍志・立川談之助・立川談幸・立川志の輔・六代目立川文都・立川談春・立川志らく・立川生志・立川雲水・立川志遊・立川談慶・六代目立川談笑・立川キウイ・立川談修・立川談大
紹介した日刊スポーツの記事と重複するが、談四楼のX。
立川ぜん馬、ついに逝く。享年76。師匠孝行だ。談志より1年多く生きた。医師が奇跡と呼んだ、出るはずのない声をよく出して奮闘した。稽古では私の弟子も世話になった。寸志など『中村仲蔵』は財産だと言っている。5月の伝承ホール、らく兵の披露目の会が最後だった。よく闘った。ゆっくり休んでくれ。
— 立川談四楼 (@Dgoutokuji) December 9, 2024
その談四楼の本は、何度か拙ブログで紹介しているが、ぜん馬は、彼が「ら族」と形容している中の一人だ。
人気者の「立川四天王」と形容される志の輔、談春、志らく、談笑以外は、「○○○ら(たとえば、志の輔ら)の立川流」と、ひと括りにされることが多い。
しかし、立川談志一門を支えてきたのは、その「ら族」の噺家さんたちである。
詳しくは、“もっと語られるべき、立川流「ら族」の人々“と題して、談四楼の『シャレのち曇り』を元にした記事をご参照のほどを。
2019年2月6日のブログ
ぜん馬の高座は、たった二度しか生で聴いていない。
最初は、その「ら族」の談四楼、そして、ぜん馬を聴きたいがために、日曜のテニスを休んで隼町に駆けつけた2017年5月の「立川流落語会」だった。
2017年5月29日のブログ
ぜん馬の高座について、こう書いていた。
立川ぜん馬 『唖の釣り』 (22分)
ようやく聴くことが出来た。昭和56年、二ツ目の朝寝坊のらく時代にNHKで優勝している実力者だ。
マクラで、二年前に急に声が出なくなり病院に行くと、食道癌のステージ4と言われたと明かす。その後の放射線と抗がん剤の治療で快復しつつあり、なんとか高座に上がることができた、と笑顔で語る。
声はかすれているが、落語を演じることのできる喜びを全身で表現するような高座だった。
マクラで釣り好きの小咄をふっていたので、「もしかして、『野ざらし』か?」と思っていたらこの噺。
生の落語でなければ味わえない楽しさに溢れていた。
今年のマイベスト十席とはいかないが、何か賞を贈呈したいので、色を付けておく。
しかし、12月に、この高座に何らかの賞を与えることはなかった。
「マイベスト十席」を書いた記事では、ぜん馬の高座のことはスルーしているので、忘れた、のかもしれない。
2017年12月24日のブログ
そうだとしたら、実に残念なことをした。
二度目は、コロナ禍の中での2021年12月の末広亭。
2021年12月18日のブログ
こう書いていた。
立川ぜん馬 『たぬきの札』 (14分)
実は、四年前の国立での立川流落語会で初めて聴けた人。
昭和56年、二ツ目の朝寝坊のらく時代にNHKで優勝、師匠談志が立川流を創設する前年の翌昭和57年に、一朝などと一緒に真打に昇進した。
師匠の芸を継ぐ実力者と評価されていたが、2010年に肝がんが見つかって以降、膀胱がんにもなるなど、闘病を続けてきた。
四年前の高座のマクラで、「二年前に急に声が出なくなり病院に行くと、食道癌のステージ4と言われた」と明かしていた。その後の放射線と抗がん剤の治療で快復しつつあり、なんとか高座に上がることができたと笑顔で語っていた。あの日の『唖の釣り』は、この人の実力の片鱗を確認できた。
今日も、実にいい笑顔で高座に上がった。
やはり、声はかすれている。
しかし、実に楽しそうに演じていた。マクラで病気の話は、一切なし。
高座に上がれることを、素直に喜び、楽しんでいるという印象。
昭和23年9月生まれの73歳。まだまだ、この人の噺を聴きたいと思う。
結果として、その後、ぜん馬の高座とは縁がなかった。
生の高座は二度だけだが、その高座から人柄の良さや芸の確かさは十分に感じた。
そして、何より「ら族」の一員として、立川談志一門を支えてきた噺家さんだ。

立川談四楼著『シャレのち曇り』
談四楼の『シャレのち曇り』を紹介した記事と重複するが、立川流創設の頃のことを確認したい。
本書は、処女作『屈折十三年』を含む、彼の半生記とも言える本。
初版が1990年発行の文芸春秋の単行本、その後私が読んだ講談社ランダムハウス文庫での発行が2008年、そして2016年、PHP学芸文庫の仲間入りをした。
小説として“虚実皮膜”の部分もあるが、なかなか興味深い内容が詰まっている。
以前に、立川流の創立につながる談四楼と兄弟子小談志の真打昇進試験落第のいきさつについて、本書第一章の処女作「屈折十三年」からご紹介したことがある。
2017年6月6日のブログ
2017年6月7日のブログ
では、昭和58年、談志が協会を脱退して立川流を設立する際の、いわば“決起集会”の模様を振り返る。
昭和58年6月13日午後10時、談志の練馬の家に、一門が勢揃いした。
総領の桂文字助を筆頭に、土橋亭里う馬、立川左談次、立川談プ、立川談生、立川小談志、立川談四楼、朝寝坊のらく改め立川ぜん馬、金魚家錦魚、立川談之助、英国屋志笑、立川談幸、他に前座の談洲、談六、談カン、志の輔、そしてマネージャーの松岡と、男ばかりの寄合である。
補足する。
談プは、その後の漫談家、祭奇パン。
談生は、現在の鈴々舎馬桜。
小談志は、談四楼と一所に真打昇進試験に落ちて、立川流発足のきっかけにもなった人だが、落語協会に復帰したのち四代目喜久亭寿楽を名乗り、2008年に肝硬変で逝去。
金魚家錦魚は、現在の立川龍志。
英国屋志笑は、二台目快楽亭ブラック。
談洲、談六は、その後廃業。
談カンは、その後、たけし軍団に入った、ダンカン。
今、「四天王」などと呼ばれているうちで名前があるのは、志の輔のみで、彼だって入門したばかりの前座。
さて、引用を続ける。
前半が談志の決意表明。後半は酒盛りであった。
六月の末日に脱退届を出す。
協会に残った方が自分にとって都合がよい、メリットがあると判断した者は残ってよし、オレが頼み込んででも残れるようにしてやる。決して無理強いはしない。
小談志、談四楼は言うに及ばず、錦魚、談之助、志笑まで俺が真打と認める。他人が認めるんじゃあない、師匠である俺が認めるんだ、こんな確かなことはないだろう。披露は秋口がいいか来春にするか、その時期と規模を考えておけ。
ついては家元制度を導入する。
十月末日までに、名前料としての一時金、真打三十万円、二ツ目は十万円納めるべし。
十一月一日より月謝として、真打が四万円、二ツ目が二万円、前座は一万円納めるべし。分割は不可。今からコツコツ貯めるべし。
集った金は、私腹を肥やすためではない。落語会など、これからの活動資金とする。
協会に残りたい者は残れ、という談志の言葉は、以外に知られていないのではなかろうか。
たぶんに、昭和53年の円生一門脱退のことが、談志の脳裏にあったのだろう。
談志が昭和58年に落語協会を脱退し立川流を創設した背景には、ぜん馬の存在も大きかったと思う。
昭和56(1981)年にNHK新人落語コンクールに優勝し、翌年12月に真打昇進。
入門は六代目円楽(楽太郎)や小朝と同期、真打昇進は一朝や吉原朝馬と同時だった。
師匠立川談志の芸の継承者と言われ、弟子の中で古典を演じさせたら右に出るものはなしと言われた。
長期間の闘病生活の結果旅立った、六代目立川ぜん馬のご冥福を祈る。
そして、どうしても、こんなことを考えてしまう。
12月7日 T先輩 69歳
12月8日 ぜん馬 76歳
12月9日 小倉智昭 77歳
ぜん馬、小倉智昭は、癌と闘う期間があった。
比べてTさんは・・・・・・。
師走に続く訃報に、そんなことを思ってしまう。
(因みに小朝は追悼文の名手、回想を交えて故人の相貌を描き出します)
それにしても、立川流はドラマ性のある集団ですね。
幾多の逸話があって、飽きることがありません。
だった二度の高座との縁でしたが、その実力は伝わりました。
残念です。
立川流の噺家さんは、たしかにネタに事欠かない。
それを知ることができるのは、談四楼の著作の功績が大きいと思います。

