アフガニスタンへのロシアの接近で思うこと。
2024年 12月 03日
アメリカを中心とする西側諸国の経済制裁で苦悩するアフガニスタンにロシアが接近している。
「時事ドットコム」から。
「時事ドットコム」の該当記事
テロ指定解除示唆、経済協力も ロ安保書記がアフガン訪問
時事通信 外信部2024年11月26日18時18分配信
【ニューデリー時事】ロシアのショイグ安全保障会議書記は25日、アフガニスタンの首都カブールを訪問し、イスラム主義組織タリバン暫定政権のバラダル副首相と会談した。暫定政権によると、ショイグ氏はロシアがタリバンのテロ組織指定を近く解除するとの見通しを伝えた他、鉱業や農業部門への投資を含む経済協力拡大に意欲を示した。
ショイグ氏はオベルチュク副首相ら高官を引き連れ訪問した。アフガンメディアによれば、2021年8月にタリバンが実権を握って以降、最高位のロシア訪問団となった。
バラダル師は、両国関係の引き上げは「経済分野における数多くの機会を生むだろう」などと期待を寄せた。
西側が見捨てるから、こうなってしまうのである。
アフガニスタンは1979年に、ソ連から侵攻された歴史がある。
朝日新聞の「Globe+」の記事は、2021年のアメリカ軍撤退の年のものだが、それ以前の内容を引用する。
「Globe+」サイトの該当記事
18世紀、アフガニスタンが独立した後、苦難の道をずっと歩んできた。
本格的に国が形成されたのは1747年になってからだ。イラン(アフシャール朝)に属していた遊牧民パシュトゥン人らが独立し、王国(ドゥラニー朝)が成立。ただ、国内の権力闘争が続いて支配者が交代するなど安定はしなかった。
「グレート・ゲーム」で犠牲、そして再独立
一方、対外的にはイギリス、ロシア両帝国の「グレート・ゲーム」に巻き込まれていった。インドを征服して北上するイギリスと、南下政策を採るロシアがアフガニスタンで「鉢合わせ」し、この地が争奪の対象となった。
イギリスはロシアに対抗するため、1838~1919年の間に計3回、アフガニスタンと戦争。第2次の戦争の後、アフガニスタンはイギリスの保護領となったが、第3次の後、再び独立を達成した(1919年)。
アフガニスタンは、ソ連とアメリカに相次いで侵攻される前、イギリスとの戦争があったことは、あまり認識されていないと思う。
引用を続ける。
独立後、アフガニスタン王国は憲法を制定するなど立憲君主制に移った。だが、急激な改革は保守的なイスラム法学者たちの反感を買い、反乱が起きるなど不安定化した。
軍人でパシュトゥン人のナディル・シャーが混乱を収めて王に即位したが暗殺され、息子のザヒル・シャー氏が19歳で王位を継いだ。
憲法を改正し、女性の参政権を実現させるなどしたが、親類のダウド元首相が1973年にクデーターを起こし、王政が廃止された。クーデター当時、ザヒル氏はイタリアに滞在しており、そのまま亡命生活を送ることになる。
ソ連の介入
ダウド氏はアフガニスタン共和国を樹立し、自ら大統領になったが、イスラム主義勢力のほか、元々同じ親ソ連派として関係が良好だったアフガニスタン人民民主党の一派も弾圧するようになった。そのため、1978年に同党を支持する将校らが起こしたクーデターによって殺害された。
アフガニスタン人民民主党は社会主義政権(アフガニスタン民主共和国)を樹立したが、2代目の指導者アミン議長がイスラム法学者を弾圧し始めた。混乱が収まらない中、1979年、政権から「要請」があったとしてソ連が侵攻。アミン氏を殺害し、親ソ連派のカルマル政権を擁立した。
その後どうなったかは詳しく紹介しないが、ソ連軍撤退の後は、内紛が続いた後、米軍がやって来た。
2001年のアメリカでの同時多発テロ後、タリバンがビン・ラディンをかくまっているという疑いから、アメリカはアフガニスタンに侵攻した。
そして、20年後の2021年、多くの犠牲を払ったままで米軍が撤退後、タリバンが政権を奪取して、現在に至る。
「Globe+」から、2001年のテロ前夜からの推移をまとめた図もお借りする。

ロシアの接近で、西側諸国とアフガニスタンとの距離は、ますます乖離するだろう。
しかし、アメリカの言いなりの日本の政府と対照的に、アフガニスタンで尊敬されてきた日本人が、中村哲医師だ。

「ペシャワール会報」161号(2024年9月26日発行)から、少しだけ引用。
元PMS職員で中村医師専属運転手だった、モクタール カーンさんの文章。
勇敢なドクターサーブ
ドクターサーブ ナカムラはとても優しく、聡明で勤勉な方でした。先生はアフガニスタン、特に東部で多くのことを成し遂げ、苦境にあるアフガン人を助けてくださいました。ドクターサーブの事業が全て成功したのは、ドクターサーブが誠意と信実をもって事業を遂行なさったからです。
一つ思い出を語るとすれば、ドクターサーブの命が危険にさらされる事態に直面した時のことです。カマ第Ⅱ堰で護岸堤の建設中にクナール河で大洪水が発生し、カマの用水路に溢れるほどの洪水が流入、カマ村落へ流れ込もうとしていたところ、ドクターサーブは命も顧みず掘削機を稼働させ、用水路壁を壊して排水させたのです。ドクターサーブはそのような事態にあっても、「我々は事業を続けるのだ。決して工事を止めてはならない」とおっしゃいました。
ドクターサーブは非常に勇敢で、何ものも恐れない勇気のある方でした。地域住民、年長者、若者、作業員、PMS職員、誰もがドクターサーブ ナカムラと共にいることを幸せなことだと思っていました。
中村先生のご冥福をお祈りいたします。
「ドクターサーブ」とは、日本語なら「先生さま」とでも言うべき、ドクターへの最上級の敬語だ。
今、心から「先生さま」と呼べる人は、永田町にいるのだろうか。
12月4日は、中村哲医師のことを思い出し、その精神がまだアフガンの地に残っているうちに、誇りとする同胞の国、日本が、世界平和のために何ができるか、真剣に考える日であって欲しい。
